渋谷はなぜ「若者の街」となったのか? パルコとロフト、東急ハンズが作った文化の香りとその感覚

「若者の街」といった文脈で語られることの多い渋谷。その変遷をルポライターで著作家の昼間たかしさんが解説します。


文化施設を作り、人を集める戦略がネックに

 渋谷の再開発が進んでいます。長らく親しまれた東急の建物群もいよいよ、高層ビルへの改築プランが本格化。渋谷ヒカリエ周辺に新たな高層ビルの計画が進んでいます。今はまだ雑然とした渋谷界隈も、あと十数年で高層ビルの建ち並ぶ新都心となりそうです。

 そんな渋谷の街は、今も昔も「最先端の若者の街」だと思われています。しかしその歴史は結構浅いのです。わずか渋谷は半世紀前まで、山手線の駅があるだけのいまいち冴えない街だったのです。

渋谷駅周辺の様子(画像:写真AC)

 そんな渋谷の街が変化を始めたのは、1973(昭和48)年のパルコの進出がきっかけです。パルコは西武系企業で、高度成長期を経て経済的に豊かになった日本が、次に求めるものを明確に見据えていました。物質的に満たされた人々が、次に求めるのは文化的な生活。そう、パルコはモノを売るだけでなく、文化を売ることをベースに企業ブランドを確立していったのです。

 パルコはパート2、パート3と拡大。パルコ劇場やライブハウスのクラブクアトロを始めとするエンターテイメント施設もオープンさせ、若者文化の拠点をつくることで人を集めようとしたのです。

 西武系企業の進出に、負けじと乗り出したのが渋谷を拠点とする東急です。この二大電鉄系企業の対決は、渋谷の発展を促進する原動力となりました。1989(平成元)年9月、東急は230億円を投じて「東急文化村」をオープンします。西武に負けじと東急が手がけたこの施設は、日本初の大規模シューボックス型コンサートホール「オーチャードホール」を有する新たな文化拠点でした。

 西武・東武ともに商業施設を集約するのではなく、文化施設を作り人を集める戦略を取ったことで、渋谷には文化の香りが流れ込み、次第に若者が集まるようになっていったのです。

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