長嶋さんの中日入りを思いとどまらせた男 立教大のミスターと杉浦忠さんを諭した球団代表がいた【コラム】
2020年4月12日 11時20分
大洋とヤクルトで監督を務めた関根潤三さんが9日、亡くなった。一度だけフジテレビでお会いしたことがあるが、画面で見るとおり物腰の柔らかい紳士だった。関根さん、長嶋茂雄さんを大洋の監督に担ぎ出そうとしたことでも知られる。
長嶋さんは1980年限りで巨人の監督を解任され、その後関根さんが口説いた。実はミスターの浪人時代、中日も声をかけていたそうだ。先輩記者に聞いた話で、「いい線までいったと聞いたが、ミスターの巨人への思いが強かったようだな」とのこと。水原茂さんも与那嶺要さんも巨人を追われてから中日の監督になっており、ミスター招へいに動いたのも自然の流れだったのだろう。
さて中日はこのはるか前、長嶋さんを選手として獲得するチャンスがあったそうだ。生前、そう話していたのは中日OBの野球評論家坪内道典さん。「杉浦(忠)クンと一緒入っていたかもしれん」と言うのをおとぎ話のように聞いた。プロ入りする時、南海が2人の獲得に熱心だったのは有名だが中日の参戦は聞いたことがない。
あらためて調べてみると坪内さんは著書「風雪の中の野球半世紀」にもその秘話を残していた。1955年9月、西銀座にあった中日球団事務所に出向いたところ中村三五郎代表がおり、テーブルには飲みかけの湯飲み茶わんが3個。客人が誰だったか尋ねた坪内さんに中村代表は「立大の長嶋と杉浦が中日に入れてほしいと言ってきたが諭して返したところだ」と言ったという
「プロでやるなら一緒に」と話していた2年生の2人は砂押監督のスパルタに嫌気がさしたようで、中日を選んだ理由について坪内さんは愛知・挙母高(現豊田西)出身の杉浦さんの地元球団だったからと推測している。立大の大先輩でもある坪内さんが、後に杉浦さんに真偽を確認したところ「そんなことがありましたねえ」と話した、と書いているからホントだったようだ。
巨人と南海でともに新人王になる2人をそのまま入団させていれば間違いなく中日、いやプロ野球の歴史が変わっただろう。そこまでのスターになるとは思っていなかったのかもしれないが、筆者は迷える大学生を説教して追い返した中村代表に敬服する。
中村三五郎とはどんな人だったか。いろいろな資料にあたってみた。歌舞伎役者のような名だが、「なかむら・さんごろう」と読む。生まれは東京。慶大時代はラグビー部に所属し、1930年に国民新聞社に入社。その後、新愛知(中日新聞社の前身)に転籍し、球団代表になった人だったことが分かった。
戦後すぐ、世に言う赤嶺旋風により大量退団者が出て苦境に立たされた中日の球団代表に就任して再建に着手。記者時代から手腕と人柄を認めていた天知俊一さんを口説き落として監督に招いたのもこの人。54年には初の優勝と日本一を見届けた。3年後の57年11月、55歳で亡くなった時には球団葬で送られたというのもうなずける。
今も昔も、プロ野球チームは監督だけでなく、フロントの手腕によるところが大きい。ここのところ低迷する中日。先が見えないこんな世の中だからこそ、今後の奮闘に期待したい。(増田護)
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