江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)で、日本刀を切れ味という観点から評価し、最高位に選ばれた15刀工を「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)と言います。この最上大業物はどのように選出されたのか、また、どのような刀工が選ばれているのか。時代の変遷に沿ってご紹介します。
最上大業物とは「懐宝剣尺」と「古今鍛冶備考」により選ばれた日本刀の中でも、特に切れ味が秀でた作例を鍛造した刀工のことです。
1797年(寛政9年)の懐宝剣尺初版で古刀期の刀工5工、新刀期の刀工7工の計12工が選出されました。
1805年(文化2年)の再版のときには、新刀期の刀工1名を追加。そして、1830年(文政13年)の「古今鍛冶備考」刊行時に、古刀期の刀工2工を加えて、計15工となったのです。
また、この選出は刑死した罪人の死体を使った「試し斬り」によって行なわれました。使用された死体について懐宝剣尺は、「30歳前後から50代前後の男子の胴」「平時に荒事をしていて骨組の堅い者の乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分を指す試し斬り用語)以上に堅い所」と記載。乳割の部分は胸骨が発達しているため断ちにくいのですが、「乳割以上に堅い所」とありますから、さらに断ちにくい部分が選ばれたことが分かります。
この堅い部分に10回切り込みを繰り返して8~9回、見事に両断するか、両断寸前まで切り込めた作例が最上大業物と判定されました。
古刀期とは、平安時代後期から1595年(文禄4年)を指します。この約600年間に各地で作刀技術が磨かれ、日本刀が武器としてだけでなく芸術性にも優れた存在へ進化していきました。
まず注目したいのは、鎌倉時代末期〜南北朝時代にかけて作刀を行なった「長船兼光」(おさふねかねみつ)です。この刀工は備前国(現在の岡山県東部)で名を馳せた人物。「延文兼光」(えんぶんかねみつ)と呼ばれる、南北朝時代の延文年間に制作された豪壮な太刀姿の作刀に代表作が多く見られます。身幅が広く、鋒/切先が大きく伸びているのが特徴です。
この兼光の作例には、「波泳兼光」(なみおよぎかねみつ)と呼ばれる物もあります。
これは、「川に飛び込んで逃げようとする罪人を背後から斬ったところ、罪人が川を泳ぎきってから、向こう岸で真っ二つになった」というエピソードを持つ1振です。斬られた当人が、斬られたことさえ分からないという、凄まじい切れ味です。最上大業物に入れられた他の作例も、尋常な切れ味ではなかったと推察されます。
また、備前国で南北朝時代初期~室町時代末期にかけて作刀した「長船秀光」(おさふねひでみつ)の作例も最上大業物のひとつです。特に2代目の作例は抜群の切れ味を誇ったとされ、懐宝剣尺においても最上大業物の最上位に据えられています。
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切れ味最優秀の日本刀を選んだだけあって、古刀期の最上大業物のなかには、截断銘(さいだんめい)を持つ物も少なくありません。これは作例の切れ味を示した物であり、茎(なかご)に刻まれています。例えば、「古釣瓶」(ふるつるべ)と刻まれた物があります。
釣瓶は井戸から水をくむための道具、これが古くて底が抜けたりすると釣瓶内に水が溜まらず、水をくみ上げることができません。このことから、古釣瓶とは「[本来切ることのできない]水でも溜まらぬほどの切れ味」という意味です。この古釣瓶の截断銘を持つ1振が「長船元重」(おさふねもとしげ)の作例中にあります。
その他の代表的な截断銘のひとつとして「笹ノ雪」(ささのゆき)も見逃せません。これは「篠雪」と表記することもあり、「笹や竹の葉に積もった雪はわずかの衝撃でも落ちる」という意味が込められています。刃が触れた程度の斬撃でも首が落ちる様を、笹の葉に乗っている雪になぞらえて表現しているのです。
複数代続いた兼定の中でも、最も妙手とされたのは嫡流2代目の兼定。銘を切る際に「定」を「㝎」と切ったため、現在でもこの名工を他の兼定と区別する意味で「之定」(のさだ)と呼んでいます。
この笹露の截断銘を持つのは「孫六兼元」(まごろくかねもと)の作例。2代兼定とともに、美濃鍛冶の双璧とされた名工であり、美濃国で作刀した兼元の2代目になります。父親の初代・兼元の作例も最上大業物に入っており、父子で切れ味優れた日本刀を鍛造しました。
ちなみに、こうした截断銘は金象嵌(きんぞうかん)で記されることが多く、切れ味における一種の格式として認知されていたのです。
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新刀期とは、従来の規律にとらわれない新しい刃文が次々と創作された時代であり、1596年(慶長元年)から1780年(安永9年)を指します。
まずは「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)。もともと甲冑制作に携わっていましたが、50歳前後に出府して刀工に転身した人物です。元甲冑師だけあって鉄の鍛えに長けており、無類の切れ味を誇りました。「石灯篭切虎徹」(いしどうろうぎりこてつ)などは、松の大枝を両断したところ、勢い余って傍らにあった石灯篭にまで切り込んだそうです。
この逸話からも最上大業物に入っている1振の切れ味のほどが想像できます。初代虎徹の弟子で、養子となり2代目虎徹を名乗った「長曽祢興正」(ながそねおきまさ)の作例も、最上大業物に入っている名刀です。
初代「肥前忠吉」(ひぜんただよし)鍛造の日本刀も切れ味鋭く、「二ツ胴截断」(ふたつどうさいだん)と金象嵌で記した物が2例ほど実在。
この他に「斬味上々」(きれあじょうじょう)と刻んだ作例もあり、最上大業物に選別される実力のほどを見せています。肥前忠吉は初代から9代にわたり、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)で作刀に従事した刀工集団です。
このため作例はあまり多くありませんが、現存刀はいずれも、精選された出来栄えの良い逸品ばかりです。
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