日めくりプロ野球 1月

【1月4日】1999年(平11) 小宮山悟、ケンカ売る「球団改革しなけりゃ出て行く」

[ 2011年1月1日 06:00 ]

新年の始動を前にロッテの“お騒がせエース”が球団にケンカを売った。

 2年連続11勝をマークした小宮山悟投手は、自主トレを前に「今年1年間、オレは球団とケンカをしていく。まさに世紀末の大勝負だ。オレが(球団を)出て行かなければ、オレの勝ち。出て行けばオレの負け」と勝敗のルールまで決めた。何のケンカかといえば、球団改革について小宮山が提案した内容をロッテが真摯に受け止め、改革を断行するかしないかをめぐってのせめぎ合いだった。

 98年12月9日、契約更改に臨んだ小宮山は来年取得するFAを早くも宣言。前代未聞の取得前の宣言は、2年連続最下位に加え、いくら訴えても一向に進まない球団改革に見切りをつけたからだった。「これまでイヤになるくらい言ってきても何も変化が見えない。何を言っても無駄ということ」とまで言い切った。

 97年の更改の席上では“ロッテVへの4カ条”をフロントに訴えたことが事の始まりだった。「新外国人としてフランコのような、他の選手の手本となる選手を獲得すること」「トレード、新人スカウトの見直し。同じポジションで競争できるレベルになっていない選手を入れても仕方がない」「打撃投手、スコアラーなど裏方の待遇改善。選手同様、グリーン車での移動を認めてほしい」「国際化の時代にスパイクなどの用具を国内2社に限って選ばせているのはおかしい。自由な選択を」--。

 3年契約のため、年俸は1億1000万円の現状維持で話は3分でついたが、残りの1時間半をチームの勝利のためにはどうするべきかの持論を説いた。にもかかわらず、チームは何ら打つべき手だてもなく、テールエンドになったことで、ついに三行半を突き付けたのだった。

 小宮山が絶大なる信頼を寄せた、フリオ・フランコ内野手は07年、49歳のメジャー最年長プレーヤーとしてブレーブスと契約し話題を呼んだが、ロッテには95年と98年に在籍。95年は第1次バレンタイン政権下で打率3割6厘を残し、かつてのメジャー首位打者の片りんをみせたが、その数字以上にチームに与えた影響は大きかった。

 大物大リーガーではあるが球場入りはどの選手よりも早く、ストレッチやランニングで汗を流した。「試合は準備段階から始まっている」とフランコ。ジャージにサンダル姿で球場に来る若手選手に苦言を呈したこともあった。「球場は神聖な場所なんだ。それに野球選手は夢を与える仕事。ファンをがっかりさせてはならない」とナイターの時は必ずスーツにネクタイを締め、休日のデーゲームの時でもポロシャツ姿で、決してだらしのないところは見せなかった。

 この姿勢に感銘を受けたのが、当時中堅選手だった小宮山や堀幸一内野手だった。95年はフロントと対立したバレンタイン監督が解任されると、127試合に出場したフランコは「110試合以上出場した場合は残留か否かの選択権がある」という契約条項を示して退団。ロッテの提示額より5000万円安い、2億5000万円でインディアンスと契約し、メジャーに復帰した。

 小宮山らの頭の中にはフランコの存在が常にあった。小宮山が示したVへの4条件にもフランコの復帰を願う項目が第1に掲げられていたが、球団もそれに後押しされて3年ぶりに呼んだという背景があった。

 しかし、フランコは復帰1年で解雇。2割9分、18本塁打、77打点の成績をあげたが、球団は2億5000万円の年俸から6000万円ダウンを提示。一時は「将来の監督候補」とまでしておきながら、山本功児新監督が就任すると「若手への切り替え」を理由に、フランコを切ったというのが実情だった。小宮山が契約更改の席でFA予告をしたのは、球団の場当たり的な対応に我慢がならなかったのである。

 その小宮山、99年はモチベーションもあがらず7勝10敗。チームは4位に浮上したが、既に居場所はなかった。予定通りFA宣言のはずが、球団は自由契約という仕打ちで放出。小宮山は横浜へ移籍。球団に挑んだケンカは、小宮山のルールに従えば、負けとなった。

 横浜、ニューヨーク・メッツ、現役投手のままの浪人生活を経て、ケンカ別れしたはずのロッテに出戻ったのが04年。バレンタインがマリーンズの監督に復帰した年だった。(08年1月4日掲載分再録、一部改変)

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