登山者が警戒すべき二つ玉低気圧のリスクVol.1 2009年4月の鳴沢岳遭難事故の教訓
最近、よく耳にする「爆弾低気圧」という言葉。中でも「二つ玉低気圧」と呼ばれるものは、過去に大きな山岳遭難を引き起こす原因となっている。今回は、二つ玉低気圧が引き起こした、2009年4月に発生した北アルプス鳴沢岳遭難事故を取り上げる。
ヤマケイオンライン読者の皆様、山岳防災気象予報士の大矢です。冬の名残の北からの冷たい空気と、季節を春から夏に進めようとする南からの暖かい空気とが日本付近でぶつかり合う春は、「急速に発達する低気圧」――いわゆる「爆弾低気圧」が発生しやすい時期です。
その中でも日本海と南岸の低気圧が発達しながら日本付近を通過する「二つ玉低気圧」は、過去に何度も山岳遭難事故を引き起こしており、登山者にとって最も警戒すべき気象リスクの一つです。そこで、このコラム記事で数回にわたって二つ玉低気圧について解説していきたいと思います。
まず、今回はこの「二つ玉低気圧」による遭難事例として、2009年4月に発生し、3名が亡くなった北アルプス鳴沢岳遭難事故について取り上げて、その時の気象状況について解説いたします。
出典:平成21年4月 北アルプス鳴沢岳遭難事故調査報告書/京都府立大学山岳会
全員が低体温症により遭難死――、鳴沢岳遭難事故の概要
この鳴沢岳遭難事故とはどのようなものだったのでしょうか。2010年3月末に京都府立大学山岳会から発刊された「平成21年4月 北アルプス鳴沢岳遭難事故調査報告書」の内容が掲載された、同山岳会ホームページからから引用します。
2009年4月26日、京都府立大学山岳部(以下府大山岳部)の三名のパーティーが北アルプス鳴沢岳で二つ玉低気圧による荒天のなか、全員が低体温症(疲労凍死)により遭難死するという事故が発生しました。リーダーのA氏(府大助教)は積雪期・無雪期を通してこの山域を熟知しており、二人の学生についても山岳部員として積雪期登山の経験もあり、事前に低気圧接近による悪天を予想していたにもかかわらず三名は鳴沢岳頂上への登行を続行し、風雪の鳴沢岳頂稜部でそれぞれが疲労凍死いたしました。
(以下、割愛)
私はこの報告書を京都府立大学山岳会から購入して何度も読みました。厳冬期の黒部・丸山東壁にルート開拓で活躍したベテラン登山家と、まだこれからの将来がある学生2人が亡くなるという本当に痛ましい遭難事故だと思います。現在では京都府立大学山岳会ホームページで事故報告書が公開されていますので、興味のある方はご覧ください。2つ目の資料に事故の詳細が書かれています。
この事故報告書では、ベテラン登山家であるAさんのリーダーとしての資質を問題視していますが、確かにリーダーとしての判断を誤ったことは間違いないと思います。しかし、当時の気象状況を詳細に解析しますと、山越え気流の影響によって北アルプス付近の風が台風並みに強まっており、かなり特殊な気象状況であったことが分かってきました。
詳細については次回以降で解説しますが、気象遭難の中には山越え気流の影響による強風が寄与しているケースがあり、同じ2009年の7月16日に発生したトムラウシ遭難事故も山越え気流が影響している可能性があることを発見しました。気象遭難事故防止のために、どのような条件でこのような強風が発生するのかが私の最大の研究課題となっています。
天気図で振り返る遭難当時の気象状況
遭難時の京都府立大山岳部のメンバーは、Aさん(当時51歳、山岳部コーチ)がパーティーリーダー務め、ほか2名の学生という構成でした。
パーティーは25日朝に黒部ダムに入り、鳴沢岳西尾根から鳴沢岳に登って、新越尾根を降りて26日午後に扇沢に下山する予定でした。入山3日前の22日の週間予報資料の地上天気図(下図)では、すでに25日の二つ玉低気圧、26日の強い冬型気圧配置は予想されていました。遭難事故報告書によると、少なくとも23日の時点ではメンバー全員が25日から26日は二つ玉低気圧によって悪天になることを知っていたようです。
そして、遭難事故当日4/26の6時と15時の実況天気図では、週間予報天気図の予想通り、二つ玉低気圧が発達しながら本州付近を通過して、冬型気圧配置が強まっています。
注目は2つの低気圧に挟まれたエリアでは、等圧線の間隔が広く、一時的に風が弱まることです。これが二つ玉低気圧の「疑似好天」をもたらします。疑似好天は、あくまで一時的なものであり、ほどなくして以前にも増して悪天になります。
事故発生時の鳴沢岳付近の気象状況の解析(気温・風)
実際に気象庁の数値予報データから当時の鳴沢岳稜線付近の気温(上)と風(下)を解析してみますと、25日は日本海の低気圧に向かって暖かい南風が入った影響で、18時には3℃以上まで上昇しています。事故報告書に残されている写真では傘をさしていることが示すように、標高の低い場所では雨でした。一方、25日の18時以降は26日昼にかけて気温は-8℃近くまで急降下します。
一方、風は25日15時に風速20m/sを超えた後、26日の6時には13m/sまで弱まっています。これが「疑似好天」です。26日6時の天気図で分かりますが、北アルプスは二つ玉低気圧の間で相対的に気圧の尾根になり、一時的に風が弱まりました。しかし、その後は急激に風が強まり風速25~30m/sの猛吹雪になりました。二つ玉低気圧がもたらすこのような気象状況の急変による遭難は、過去に何度も起きています。
二つ玉低気圧による「疑似好天」の発生メカニズム
二つ玉低気圧によって、2つの低気圧に挟まれたエリアで一時的に天気が回復する「疑似好天」が起きるメカニズムをまとめると下図のようになります。
まず、低気圧の中心付近で上昇気流が発生しています。空気は上昇すると冷える性質(断熱膨張冷却と言います)を持っているため、冷えて水蒸気が凝結して雲ができます。上昇する空気だけでは低気圧の中心付近の地上では空気が無くなって真空になってしまうので、低気圧から離れた場所では必ず下降気流が発生しています。
2つの低気圧の間では、両方の低気圧による下降気流が発生します。空気は下降すると温まる性質(断熱圧縮昇温と言います)を持っているため、今度は空気が温まって雲粒は蒸発して雲が消えます。
さらに2つの低気圧の間では、それぞれの低気圧による風が互いに打ち消し合うため、風も弱まります。これが「疑似好天」のメカニズムです。何度も繰り返しますが、「疑似好天は」あくまで一時的なものであることを肝に銘じておいていただけると幸いです。
大矢康裕
気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、気象防災NPOウェザーフロンティア東海(WFT)山岳部会の一員として山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
現在、岐阜大学大学院工学研究科の研究生として山岳気象の解析手法の研究も行っている。