「恐懼戒慎」
国立民族学博物館助教授
文学博士
八杉佳穂(昭和43年卒)
 どうも人間性の欠如、品位のなさが目立つこの頃である。金さえ儲かればいいとか、勝ちさえすればいいとかいう風潮が、人間に大事な品位を奪ってしまったようである。
 たしかに金がなければ、気持ちが卑しくなる。金はあった方がいい。負け犬の遠吠えということばもあるように、勝つ方がいいに決まっている。となると、ともかく金もうけをしなければならない、ともかく勝たねばならない、という気持もになって、なりふり構わなくなってくる。
 バブル期に拍車がかかったそうした風潮が、ここに来て一挙に吹き出してきた感がある。たとえば、このところ相次ぐ官僚の不祥事。その報道をみていると、天下国家を論じていたはずの官僚は消えてしまったかのようである。たしかに安い給料で働いているのであるから、周りが金儲けに走ると、白分もやりたくなるのは人情である。縦割り組織に長年浸っていると、大所を忘れ、省益ばかりか、自己の利益ばかりを考えるようになるのも当然といえば当然かもしれない。
 こんなにたがのゆるんだ日本は、このまま転落の道を歩むのではないかと、世紀末も近いこともあって、心配である。
 もっとも、人間は都合のいいことを考えるもので、心配は心配であるが、日本はまだ大丈夫という気がする。というのは、文明は、二百六十年周期で盛衰を繰り返すと思うからである。人に栄枯盛衰があるように、文明にも盛衰がある。私が研究しているマヤでは、二百六十年周期の暦があるが、マヤ人は文明の盛衰をその暦から読みとっていた。江戸時代をみれば、なるほどマヤの法則にあって、ちゃんと二百六十年あまりで終わっているではないか。すると、いまは明治という近代が始まって百四十年あまリしかたっていないので、まだまだ転落するには早すぎるということになるわけである。
 それでも、このところの品性のない人たちをみると、情けない。
 人のことばかり言ってはおれまい。白分のことを考えてみると、どうも生まれつき、品性がないのではないかと、疑わざるをえない。ほっといたら、白分も不祥事を起こしそうである。これくらいならごまかしてもじゃまはないだろうといった気持ちがおこったリ、これをしたら損するからやめとこう、こうしてやると得をするからやってやろうなど、損得勘定だけでものを考えてしまう。白分のことを振り返れば、欠点ばかりが浮かんできて、これまた情けない。
 そのため、そうした品性のなさがいつでてくるかと、絶えず白分に恐れていなくてはならないのである。牛まれつき品格の備わっている人がうらやましい限りである。
 数年前、高名な民族学者で、ハーバード大学の名誉教授が私が勤めている博物館を訪ねてきた。ほんの数時間であったが、館内を案内し、歓談した。ふつうはそれだけであるが、しばらくして丁重な礼状が送られてきて驚いた。こんな無名なものに礼状を出すのであるから、どんな人にも、忙しい時間を割いて、きちんと礼状を出しておられるに違いない。
 本当にできる人は、限りなく誠実であり、礼儀正しいとつくづく感じる。そういう人は、手紙を出しても、必ず返事をくれる。
 私も、そうしたすぐれた人にあやかり、返事は必ず書くよう努力をしているが、卑小な人格を改善するためには、それでは足りそうにない。そこで自己改善の処方嚢を考える。
 人間はささいな詰まらぬことを考えるとともに、宇宙の果てのことまで思いを馳せることができる。この心の弾力性を利用しない手はない。広く、大きく。
 目先の欲を排する。目先の欲に負けそうなことがよくある。しかし目先の得をとると、かえって品性を傷つけることを肝に銘じる。
 白分の都合ばかり考えず、人の身になって考える。この世にはいろいろな人がいるから、相手のためにいいと思って言っても、逆に恨まれることがたくさんあるが、いろいろな人がいるから人生はおもしろいと思うことにする。
 こんな具含に、どんどん改善策が浮かんでくる。そんなことを考えずに、ひたすら自分の専門とする学問に邁進する方が、よほど人格が鍛えられ、清冽になり、学徳が積めると思うのであるが、いらぬことばかりに気がいって、いまだ道遠しである。
2006年12月18日追加●2009年7月10日更新:氏名●