「無難な選択ばかりしていた」俳優・大谷亮平、人生の転機は3回断ったオーディション【ロングインタビュー】
「若い人にああしろ、こうしろって言うの、嫌いなんですよ。人によって環境も考え方も違うじゃないですか。結局、自分で探りながら決めていくしかないんで。僕自身も昔は大人の言うこと聞かなかったし……聞くことは聞いたか。参考にしなかっただけですね。ひねくれ者なんです、ちょっと(笑)」 【画像】大谷亮平さんの最新オリジナル撮り下ろしカット集 インタビューの趣旨を伝えると、そう語りながら苦笑いを浮かべた。ジャンルにとらわれず幅広い役をこなし、数々のヒットドラマに出演してきた大谷さんだが、日本でのドラマデビューはわずか6年前の2016年。韓国で俳優デビューし“逆輸入俳優”となるまでの経緯を詳しく聞いた。
バレー一色の青春時代。 挫折のおかげで人の痛みを知った
物心がついたときから体を動かすことが大好きだったという大谷さんは、小学4年生のときに始めたバレーボールで才能が開花。スパイカーとして高い評価を受け、中学、高校、大学をスポーツ推薦で入学した。 「中学時代、一気に身長が伸びたんですよ。スパイカーとして高く評価されて、かなり天狗になっていましたね。やる気満々で強豪校に進学したものの、桁違いなレベルの高さにあ然。全国から集められた選手たちに全くついていけず、完全に打ちのめされました。 もちろん悔しかったけど、スポーツは実力が数字として出るものだから、認めざるをえない。誰にじゃまされたわけでも、弊害があったわけでもないですから。でも、その経験があってよかったなと思います。おかげで立場が弱い人、何かを諦めた人の気持ちがわかるようになったので。 大学でもバレーは続けていましたが、完全に惰性でしたね。夢も目標もなかったけど、バレー以外に何をしたらいいかわからなかったんです。勉強なんてしてこなかったから受験は無理、かといってまだ働きたくない。なんとなく大阪を出たくて、上京しました」
やりたいことがないから就職しない。 のんきな学生でした(笑)
「とりあえず大学に行けば、また何かが見つかるかもな」。そんな大谷さんの淡い期待はかなうことなく、あっという間に4年が経過する。 「パッと振り返って、際立った思い出がひとつもないんです。大学4年間。まぁ、何もやる気がなかったし……あんな生き方していたら当然かな。将来やりたいことも見つからず、なのにサラリーマンになるのは違うな、という確固たる自信があって。卒業後はフリーターとして、バイトを何個か掛け持ちして暮らしていました。 友達はみんな就職しましたが、不思議と不安はなかったですね。両親も放任主義というか自由にさせてくれるタイプで、注意されることもなかった。このまま何も見つからなかったら体育教師にでもなろうかな、と考えていた記憶があります。当時は教師不足だったから。今だったら、あんなにのんきにはいられなかったですね(笑)」