小中千昭さんインタビュー(1)


――最初に映画をお作りになったのが10歳の時だそうですが、最初に映画を作ろうと思ったきっかけは。

小中:親が結構映画が好きだったので、子供の頃から良く連れて行ってもらっていたんです。もちろんゴジラシリーズとかがメインでありながら、他にもチャールトン・ヘストンの史劇とか『黒部の太陽』みたいな普通の人が観る様な映画とかいろいろ観ていました。それから映画とテレビっていうのは分けてなくて、『ウルトラマン』やアニメとかのテレビ番組、あと洋物のテレビシリーズにもすごく影響を受けていて、映画ごっこっていうのをずいぶん早くから弟(注:映画監督の小中和哉氏)とやっていたと思うんですよ。
 それで小学校3年の時に祖父がたまたま8ミリカメラを持っていたものですから、それを借りて従姉妹に芝居をさせて撮ったというのが最初なんですよ。その時はフィルムが3分20秒あるというのは分かっていたんです。でも編集って概念を知らないわけですよ(笑)。だから頭っから順撮りで、もちろんNGが出るなんて事は想定していなくて。それは一応最後まで撮ったですね。ただこのフィルムはちゃんと写ってなくて実は処女作は失敗作だったっていうオチがあるんですけれど。
 その後そんなに作りたいんならってカメラを譲り受けて、習作みたいなのをずっと重ねて、小学6年くらいからまともな映画を作り始めて。それは完成した時は中学になっていましたけど『インベーダー』っていう私の作品で現存する中では一番古い奴で、その時はさすがに編集は覚えていましたね(笑)。

――もちろん最初は和哉さんと一緒で、それ以降一緒に作るスタッフというのはやっぱり学校のサークルとかですか。

写真小中:中学入ると弟とは学校が別れちゃうんですよ。それで中学時代は私の周りで映画を作りたいっていう人はあまりいなかったんで、映画作ると面白いよってだまくらかして無理矢理手伝わせていましたね(笑)。
 弟はそういう仲間が結構見付かっていて、中学時代からリトルマロンプロっていうのをやってて、高校では、自主映画の名門で、当時先輩に手塚眞君とかいた成蹊高校の映研に入って、そういうサークルで活動していて。
 私は年に一本ずつ自主映画は作ってましたけど、どちらかというとワンマンでやってましたね。

――その時その時で学校の友達とかに声をかけてという感じで。

小中:そうですね。だから上映するといったら文化祭とかしかなくて、しばらくは非常に閉じたところでやっていたんです。
 だけどだんだん特撮を使った8ミリ映画を作る人たちが一緒に上映会をする機会というのが出始めて、一瀬隆重さんとか、河崎実さんとか、今プロデューサーやっている松山仁さんとかですね、一種の連帯感をもった仲間意識っていうのがなんとなくできて。私が大学入ってしばらくしてからがそういう感じでしたね。
 あの頃ほんとに自主映画っていうのは面白かったですよ。お互い刺激しあったし。私は特殊メイクとかを結構早めに始めていたんでいろんな人のところへスタッフで行ったり、そういう事がありましたね。

――ご自分で映画を作るようになってからは、どんな映画をご覧になっていたんでしょうか。

小中:やっぱりSFとかスペクタクルとかが多かったと思いますね。日本映画と意識して観始めたのは高校に入ってからだと思います。まだその頃は文芸座もあったし並木座もあってしょっちゅう黒沢明特集なんかやってたし、観たい映画は大体映画館で観られた時代ですよね。オールナイトでまとめて観たり、そういう意味では幸せな時代だったんでしょうね。

――ホラーに興味を持たれたのはいつ頃からですか。

小中:それは1970年代に入って『エクソシスト』と『ヘルハウス』がほぼ同時に公開された時、まあその瞬間からではないんですが。
 実は私はそれまではホラー、というか当時そんな言葉はなかったんで怪奇映画っていうのは、観てはいましたけれどどっちかっていうと苦手だったんです。怖い事が面白いとはそんなに思ってなかったですね。
 その頃私は中学2、3年くらいで、もう自主映画を撮り始めていて自分が撮った映画を観てお客さんがどう反応するかっていうのが凄く気になっている時期だったんです。それで『エクソシスト』はクラスの仲間で10人近くで観に行ったんですが、どっちかっていうと一緒に行った連中のリアクションの方が面白かったわけですよ。
 私はその頃は『ヘルハウス』が圧倒的に面白いと思ったし、好きだったんですね。エンターテイメントとしてストレートだったし、とにかくカタルシスがあったし。『エクソシスト』の怖さっていうのは、そういうお化けの怖さじゃなくて、注射器から血がピューっと出る生理的な怖さとか、全体のテイストとか抑圧的な事でみんな怖いんだろうと無理矢理分かった気になろうとしてましたね。ただ後になってウィリアム・フリードキンがあの時いかにアナーキーで凄い事をやっていたかっていうのが分かってくると価値観は変わって逆転しているんですけど。
 やっぱり、人が笑える物とか涙が出るほど感動できる物にお金払うっていうのは当たり前ですけど、なんでわざわざお金を払って嫌な思いをしに行くんだろうと。既に自分は送り手になりたいっていうか、なっているつもりだったので、それを凄く面白く感じたっていうのがホラーに関心を持った最初でしたね。
 小説も怪奇小説っていうのは好んで読んでなかったのがそこから先どんどん幻想文学の方に入っていくし、怪談映画の古い奴を観るのもそれからですからね。

――ラヴクラフトとかを読むようになったのも、ホラー映画の体験があってそれ以降ですか。

小中:そうですね。『鉄腕アトム』以降の子供は誰しもそうだと思うんですけど、やっぱり最初はSFじゃないかなと。私はそこから怪奇幻想系に転び出したというか。

――大学時代まで自主映画を作られて、大学以降はどんなお仕事を。

小中:学生の時から既に業界の周辺にはいまして。その頃CMがオプチカルじゃなくて、物を大きく作ってセットで特殊効果をやるっていうのが流行った頃なんですよ。それで『コマーシャルフォト』っていう雑誌で「君、特撮詳しそうだからちょっと写真撮って話聞いてきて」という感じで取材して記事を書くというのを学生の時にちょっとだけやってて、それでプロの現場っていうのがどういう風に動いているのかっていうのを見るようになったんです。
 その後大学を出てちゃんと就職活動しなかったもんですから、ある編集プロダクションがこれからは映像の時代だから映像部門を作るというので、ディレクターできますって言ってだまくらかしてですね(笑)、テレビのミニ番組とかの演出をやるっていうのを2、3年やってましたね。その時に予算の管理とかを全部自分でやって、商業作品っていうのはどこでどういう風にお金がかかるのかというのが分かったのが一番勉強になりましたね。

――それは社員として入られたんですか。

小中:いえ、契約です。その会社は私がいる最中に傾ぎましてですね、ギャラはないんだけど仕事を一応コンプリートしなきゃいけないっていう状態になりまして、その時にはかなり社会的な苦労はしたつもりで(笑)。
 ちょっと記憶が定かでなくなってるんですが、丁度その頃に石井てるよしさんという監督と知り合って、ちょこちょこやっている内に「小中君今度ホン書いてよ」という風にいわれて『邪願霊』をやったのが脚本家としては最初だったですね。
 そこからライター専業になるまでっていうのが一年くらいオーバーラップしてたのかな。それまで博覧会映像の演出とかもやってたんですけど、面白いもんでだんだんそういう演出の仕事の発注は来なくなって、いつの間にかなんとなくライターに変わっちゃったっていうか。

――『邪願霊』の前にも特殊メイクとかの仕事でいくつかの作品に関わられていますが、それはその会社のお仕事だったんですか。

小中:いやフリーだったんで、それはディレクターの仕事とは別でした。
 いろいろダミーを作ったりしましたね。でも低予算の物が多かったんで、出来としてはチャチだったけど。

――ディレクターになってからは、自分で映画を作るということはなかったんですか。

小中:そうですね。私にとって自主映画というのは習作だったって言うと語弊があるかもしれないけど、やっぱりそうだった気がするんですよ。
 弟は全然違って、自主映画でなければできない事とか上映会自体をイベントとして楽しむというのをやっていたんですけど、私の場合は例えば『SF DISINFORMATION-A 』という作品は8ミリなのに75分くらいあって、何をモデルにしたかっていうと土曜ワイド劇場なんです。土曜ワイド劇場のノリでUFOフォークロアを扱った世界的なポリティカル・フィクションという作品で、いや内容はセコいんですけどね(笑)。その時はそういう物を指向していたんです。
 だから、アーティスティックな物じゃなくて、商業的なエンターテイメントを作るためのスキルを上げるために自主映画を作るという事をその頃からぼんやりと思っていたんじゃないかなあ。まあ、それなりに自主映画の楽しさってありましたけどね。

――石井てるよしさんの作品に参加されたきっかけは。

小中:最初石井さんと出会ったのがやっぱり低予算のホラー作品で、私が特殊メイクというか、メイクする予算もなくてただ血のり作っちゃぶちまけていたような作品がありまして、その時にいろいろ話をして。
 その頃私はクレージーキャッツが大好きで、浅草東宝で毎月毎月オールナイトに行っていたんです。自主映画時代の完成作としては最後に近い『刑事あいうえ音頭』っていう東宝無責任映画へのオマージュ作品があって、それはその頃に浅草東宝で知り合ったミュージシャンの人達とかと一緒に作った映画なんです。それで石井さんも60年代オタクで、お互いに「ああそう、こういうの好き」みたいなところで話が合って、仕事以上の話をするようになったんです。
 ただ、なんで私にシナリオ書けって言ったかは未だに謎なんですけどね。というのは私は自主映画時代ははっきり言ってシナリオって軽視してました。コンテでどうにでもなると思っていたんです。一応書くんですけど、横書きだったし、自分がわかればいい、役者さんがセリフが言えればいい、現場でなんか違うようだったら変えちゃえばいい、っていう感じだったですね。

――自主映画時代はもちろん演出もされていたし、どちらかというと撮影技術の方に関心があったんでしょうか。

写真小中:そうですね。凄く技術系の関心が強くて。
 だから闇雲に映画監督になりたいって思っていたわけじゃなくて、自分でも何になろうっていうのが良く分かんなかったんですよね。日本の監督さんでああいう風になりたいって方はいなかったし、好きな作品はもちろんあるけれど自分がそういう立場にいるっていうのは想像できなかった。それより関心があるのは、特殊メイクとかオプチカルとかといった撮影技術だったんですね。

――それが最初の『邪願霊』をやられたとき、どこかで脚本が自分の仕事だという風に思われたところっていうのはあったんでしょうか。

小中:いや、『邪願霊』は特撮の現場とか音響や音楽もやったし、俳優の演出以外は全てやったと言ってもいいくらいやっていて、脚本書いただけっていう関わり方ではなかったんで『邪願霊』とそれから同じ流れでやはり石井監督の『TARO!』っていう映画の時はシナリオライターがメインていう意識は全然なかったですね。その後も自分で「ライターになりました」って人に言った事って1回もないんですよ。もうただ押し流されて今日ここにいたという(笑)。
 ただなんで私が『邪願霊』以降脚本を書けているかっていうと、契約ディレクターをやりながらTBSのスタジオ作品で特撮のアドバイスとかもやってて、そこで台本がどう線を引かれコンテになって現場でどう動くかっていうのを見て、脚本ってこんなに大事だったのねっていうのを認識したのと、シナリオというのがどういう風に情報として現場の人や役者さんに伝わるかというのを間近で見れたのが勉強になったんです。
 だから私のシナリオの書き方はテレビスタイルだし、ト書きなりで線を引けば一応コンテが切れるようになっているんですよ。

――特殊脚本家という肩書きをずっと使っていらっしゃいますが、その理由というのは。

小中:今はもうほとんどシャレになっちゃったんですけど、私が一応シナリオライターがメインていうか仕事なのかなって思えたのは5、6年前か7、8年前だと思うんですけど、その頃はジャンル作品っていうか、ホラーとか怪物映画を専門にやっている人って当然いなかったわけです。
 それで「自分はホラーは嫌いだけれど仕事として怪談映画を撮ってみせるよ」と公言する監督さんとかいまして、それを聞いて黒沢清さんと非常に怒ったりしてたんですよ。「なら撮るんじゃねえよ」って。
 だから「私は普通の映画はやらないよ」っていう一つの意志表示のつもりだったんです。ジャンル作家です、それしかできません、っていう意味合いで使ってたんです。
 だけど今はそういう時代でもなくなっちゃったんで、お人形を作るシナリオライターとかそういう意味での特殊さしかないのかなって(笑)。

――特殊メイクとかを担当された作品もあるし、最近もTVアニメの『serial experiments lain』で実写映像などもやられているので、脚本という枠にはとどまらないっていう意味があるのかと思っていたんですが。

小中:ああ、そう思われてる方も多いと思うし、自分でもその要素がないとは思わないんですよ。実際に何かを作るというんじゃなくても、ただ発注があってホン書きましたっていうだけじゃなくて、スタッフとより綿密に関わって普通の脚本家のいるポジション以上のことをやると。
 私がそういう風にやっていくのが特にアニメの現場でホン書き始めた時は珍しがられた、というよりは疎ましがられて。だけど、そうすることの方がいい作品につながるというのがだんだんわかってくれる風になってきましたね。
 でも、なんでも自分でやりたいって私から言ったことは一度もないです。『lain』の実写映像も私が自分でやるって言ったわけじゃなくて、監督に「小中さん、撮るよね」って決め付けられてましたから(笑)。だから別に越権みたいな意識はないんですよ。





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