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織田信長に与えられた官位「右近衛大将」が意味すること

天下人・織田信長の実像に迫る(4)足利義昭追放から安土城へ

柴裕之
東洋大学文学部史学科非常勤講師/文学博士
情報・テキスト
足利家最後の将軍義昭を追放した織田信長は、敵対する勢力の鎮定に力を尽くす。次々に勝利を収める彼のもとへ、やがて朝廷から「右近衛大将」という立場に任命される。これこそは、信長を実力とともに官位の上でも「天下人」と認めるものだった。安土に城を築いた彼は、天下の運営に乗り出していく。(全11話中第4話)
時間:08:12
収録日:2020/03/17
追加日:2020/07/20
キーワード:
≪全文≫

●足利義昭追放後の織田信長


 元亀四(1573)年七月、織田信長は室町幕府の将軍である足利義昭を追放することになります。一般的には、これで信長はようやく自分の念願としている中央に君臨する天下人へと歩んでいったというイメージが強いかと思います。ところが、実際の信長はどうであったのか。義昭を追放した信長は、その後の室町幕府将軍である足利氏に誰を据えようか、場合によっては義昭と和解して戻ってもらおうかと考えていました。つまり、室町幕府を再び築き上げていくための動きを取っていたことが分かっています。

 義昭を追放にしたことによって信長が天下人に立ったというイメージが私たちにはあるかと思いますが、実はそうでなく、信長自身は、まだ足利氏を立てようとした。そのなかでは、義昭と和解して今までのようにやっていこうということも視野に入っていたことを押さえておいていただきたいと思います。

 ところが、一度切れた関係というのは、なかなか元に戻るのは難しい。将軍義昭と信長との関係は、元に戻ることは結局ありませんでした。信長はさらにどうするかというと、敵対した勢力を鎮めていくことになります。義昭を追放した直後には、越前の朝倉氏、近江の浅井氏、また三好氏といった存在を、信長は次々と討っていきます。

 さらに天正三(1575)年になると、反勢力として敵対してきた甲斐の武田氏を、長篠の戦で破ります。その前年には伊勢の長島一向一揆との戦いもありましたが、今お話ししている天正三年には越前の一向一揆を平定し、本願寺を和睦に追い込むことになります。

 このようにして次々と敵対する勢力に対して優勢な状況を築き上げていくなかで、やがて「織田信長が天下人であるべきではないか」という状況になり、それを感じさせる動きが起きてくるわけです。また信長自身も、それを意識し出します。


●朝廷から賜った「右近衛大将」の意味するところ


 そういったなかで、天正三年十一月、遂に朝廷は信長を「従三位権大納言兼右近衛大将」という立場に任命することになります。これはどういう意味を持っていたのでしょうか。

 「権大納言」という官職は、信長が追放した将軍義昭と同じ立場です。どこが違うのかというと、足利義昭は征夷大将軍という立場で、信長は「右近衛大将」という立場です。これらがどう違うのかということになると、一般的には武家の棟梁というと「征夷大将軍」というイメージが強いかと思います。しかし、実は「右近衛大将」というものも、武門、すなわち武家の棟梁にふさわしい立場(ステータス)として、当時はありました。

 信長が征夷大将軍に匹敵する右近衛大将になったことがどういうことを意味するかというと、室町幕府将軍である足利氏に代わって、織田信長が天下人へと歩み出していった状況を意味してくるのです。つまり、それまでの室町幕府将軍足利氏による時代から、織田信長による時代へと変わっていったことが、官位によって分かります。

 以後、信長は、朝廷との関わりのなかで官職を高めていき、最終的には、「正二位右大臣兼右近衛大将」という立場に上りつめていくことになります。これは、将軍義昭より上の立場です。つまり、足利と立場を逆転させることによって、彼は実力だけではなく、社会的(地位的)秩序においても天下人になったということになってくるわけです。


●家督を譲り、天下人の拠点「安土城」へ


 こうして信長は、中央権力としての織田政権とを運営していくことになるわけですが、それにあたって信長がどうしていったかを見てみましょう。

 今までの彼は大名織田家の当主だったわけですが、これからは天下人として活動していかなければならない。そういう状況になった彼は、天下人としての立場に専念するために、織田家の家督を自分の後継者としてあった嫡男の織田信忠に譲っていきます。織田家の当主は信忠に譲り、信長は天下人の立場に専念していくという状況になっていくわけです。

 この上で、信長は、さらにどう動いていったか。彼はそれまでの織田家の居城だった岐阜城から離れ、近江の安土に自分の活動拠点である城を新たに築いていくことになります。これがいわゆる安土城になっていくわけです。

 信長はなぜ安土城、あるいは安土という地を選んだのでしょうか。一つには、安土という地が交通や流通城の要地であったことが挙げられます。もう一つ押さえておいていただきたいのは、天下の中心である京都と、織田家の拠点である岐阜のほぼ中間に当たる地域が安土であったことです。

 安土の特徴を踏まえた上で城を築いた信長は天下人として活動していくわけです。天下人の拠点となった安土城は、高層石垣の上に七重の天主という建物があったといわれています...
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