室町時代

応仁の乱
/ホームメイト

応仁の乱 応仁の乱
文字サイズ

室町幕府が衰退した理由とも言われる「応仁の乱」。11年という長い争いにより、戦国時代へと続くきっかけとなった応仁の乱はなぜ起こったのでしょうか。 室町幕府の悲劇とも言われている応仁の乱が起きたきっかけや、戦国時代の幕開けまでの流れなど、室町時代に起こった応仁の乱について解説します。

室町幕府衰退の危機と「応仁の乱」が勃発したきっかけとは?

足利義政

足利義政

ときは1465年(寛正6年)、室町幕府8代目将軍・足利義政(あしかがよしまさ)と正室・日野富子の間に子を授かったことから、応仁の乱が勃発する火種が生まれます。この火種となった原因は優柔不断な義政にあるという説や、富子にあるという説もあります。

応仁の乱が起こったきっかけとは何だったのでしょうか?

次期9代目室町幕府将軍は弟だった?

義政と富子はある問題を抱えていました。それは、子供に恵まれないということ。1459年(長禄3年)に第1子を出産しますが、すぐに亡くなり、6年もの間子供には恵まれませんでした。お世継ぎが誕生しなければ、室町幕府は衰退の一途を辿ってしまいます。

そこで、弟であった義視(よしみ)を養子に迎え入れました。現代ではあまり考えられない養子縁組ですね。弟を長男として迎え入れることで、義政の後釜は決まったようなものでした。

心変わりで大混乱!次期9代目室町幕府将軍は誰の手に?

1465年(寛正6年)、事態は一変します。義政と富子との間に第2子が誕生したのです。

第2子は足利義尚(あしかがよしひさ)と命名。これは、喜ばしいことなのですが、養子と生まれた息子との間には格差が生じました。

「次期9代目室町幕府将軍は息子の義尚とする」とお世継ぎをあっさりと変更してしまった義政。これには、養子となっていた義視がおもしろいはずがありません。

火種の元凶?足利義政の正室は悪女だった説について

応仁の乱が起こったきっかけは、富子の「自分の子に跡を継がせたい」要望から、という説があります。息子が可愛いあまりに、足利義政に耳打ちし弟を裏切ったという説は、嘘か誠か定かではありません。なぜなら応仁の乱は11年もの間続いたため、古文書があまり残っていないからです。

このような説から、彼女は「日本3大悪女のひとり」と言われています。ちなみに、他に日本3大悪女の中に入るのは、北条政子淀殿です。

4つのお家争いが勃発?「応仁の乱」はまさに「人よむなし」(1467)

11年間続いた応仁の乱。足利義政の子だけが原因で、11年もの間争ったのでしょうか?

それだけではありません。応仁の乱には、4本の糸が絡まっています。まずは、その4本の糸について解説します。

将軍家の分裂!室町幕府将軍家の9代目お世継ぎ争い

まず1本目の糸は、将軍家争い。将軍家は義尚派(実子)と義視派(養子)の2派に分かれます。同じ頃、有力守護大名の畠山氏や斯波氏の家中でも家督争いが起こっていました。

実は畠山家の争いこそが応仁の乱が勃発した原因だという説もあります。なぜ、いくつもの説があるのでしょうか?それは、将軍家のお家争いは、応仁の乱に関する戦記を書くために、話を分かりやすく解釈させただけの説も存在するからです。その真相については、古文書があまり残っておらず定かではありません。

有力大名の畠山家がお世継ぎ争い

2本目の糸は、有力大名であった畠山家。争いの原因は畠山家でも、足利将軍家とほとんど同じパターンです。畠山持国(はたけやまもちくに)には、跡継ぎができなかったため、弟の持富(もちとみ)を養子にしますが、その後、義就(よしひろ)という実子が生まれてしまいます。

このような流れで、弟と実子のお世継ぎ争いが勃発しました。

有力大名の斯波家がお世継ぎ争い

3本目の糸は、同じく有力大名であった斯波家でも、斯波義健(しばよしたけ)の養子である義敏(よしとし)が重臣と対立し、家督を取り上げられてしまう事態が起こりました。

また、新しく養子となった義廉(よしかど)と義敏の間で家督争いが勃発します。

義理の親子 山名宗全と細川勝元の対立

4本目の糸は、実力者を後ろ盾にしようとたくらむ2人の人物。それが、山名宗全(やまなそうぜん)や細川勝元(ほそかわかつもと)です。

実は、宗全と勝元は舅(しゅうと)と娘婿の関係。しかし、仲が悪かったことにより、将軍家の跡継ぎとして、宗全は足利義尚(実子)を、勝元は足利義視(養子)を担ぎました。義理の父と娘婿との関係が悪いご家庭があるのは、今も昔も変わらないですね。

4つの家督争いが合体!西軍VS東軍

西軍vs東軍

西軍vs東軍

このような山名宗全と細川勝元のたくらみにより、室町幕府と大名らは東軍・細川勝元側(畠山政長・斯波義敏・足利義視)と、西軍・山名宗全側(畠山義就・斯波義廉・足利義尚)に分裂し、応仁の乱と呼ばれた戦いはその後11年も続きました。争いが起こった場所は京都。京都には室町幕府と天皇家がありましたが、応仁の乱のあとは都としての機能を失い、崩壊寸前でした。

まさに、「人よむなし[1467] 応仁の乱」と呼ぶにふさわしい11年間です。

戦国時代の幕開けと室町幕府の衰退

応仁の乱により、室町幕府の権力は衰退の一途を辿ります。

まず、幕府への不信感が募ったことにより、荘園制度を基盤としていた守護大名達が衰退していきました。代わりに力を付けていったのは、室町幕府に不信感を抱いた地元の有力者武士達です。この武士や有力者達が、のちに領地を支配する「戦国大名」と呼ばれるようになります。このように、応仁の乱が戦国時代の幕開けのきっかけを作ったのです。室町幕府や守護大名の絶対的な地位は揺らぎ、下克上の世の中へと時代は駒を進めます。

これが、室町時代に起こった「応仁の乱」の全貌です。

応仁の乱をSNSでシェアする

キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「室町時代」の記事を読む


織田信長とランチェスター戦略

織田信長とランチェスター戦略
1560年(永禄3年)5月19日早朝に起きた「桶狭間の戦い」は、戦国史を揺るがす転換期のひとつとして誰もが知る戦いです。20代半ばの「織田信長」が数千騎の兵で、大軍を率いる「今川義元」軍に戦いを挑み見事、大勝利。この勝利には「奇襲作戦が功を奏した」、「悪天候が味方した」、「偶然の勝利だ」と多くの意見が交わされます。しかし、意外にも現在のビジネスマーケティングの手法「ランチェスター戦略」が活用されている面もあるのです。このランチェスター戦略(人・物・情報の集中戦略)が、織田信長とどのようにかかわるのかを解説していきます。

織田信長とランチェスター戦略

二俣城の戦い

二俣城の戦い
「二俣城の戦い」(ふたまたじょうのたたかい)とは、1572年(元亀3年)に起こった「徳川家康」軍と「武田信玄」軍による「二俣城」(静岡県浜松市天竜区)を巡る攻防戦です。 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄は、徳川家康・「織田信長」打倒のために挙兵。およそ27,000の大軍勢を率いて徳川家康の所領である遠江国(現在の静岡県西部)・三河国(現在の愛知県東部)への侵攻を開始します。これが世に言う武田信玄の「西上作戦」(せいじょうさくせん)です。二俣城の戦いは西上作戦における戦いのひとつであり、徳川家康最大の敗戦とも言われる「三方ヶ原の戦い」の前哨戦(ぜんしょうせん)にあたります。二俣城の戦いとはどのような戦いだったのでしょうか。当時の歴史的背景も交えて探っていきます。 どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

二俣城の戦い

室町幕府とは

室町幕府とは
「室町幕府」は、1338年(暦応元年)に、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)によって京都に樹立された武家政権です。鎌倉幕府の政策を踏襲しつつ、各国の支配を一任した守護大名の設置や、明(現在の中国)との日明貿易などにより、3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代に最盛期を迎えます。現代日本における美意識の源とも言える、東山文化の発達なども踏まえて、約240年間にわたる室町幕府について、ご紹介します。

室町幕府とは

永享の乱

永享の乱
「永享の乱」(えいきょうのらん)は、1438年(永享10年)に関東で起こった戦乱です。この戦は「鎌倉公方」(かまくらくぼう:室町幕府が設置した鎌倉府の長官)であった「足利持氏」(あしかがもちうじ)と「関東管領」(かんとうかんれい:鎌倉公方を補佐する役職)であった「上杉憲実」(うえすぎのりざね)との直接対決となりました。永享の乱は京都に置かれていた室町幕府の6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)と足利持氏との対立が原因で起こったと言われています。永享の乱が、どのような戦乱だったのか詳しくご紹介します。

永享の乱

享徳の乱

享徳の乱
「享徳の乱」(きょうとくのらん)は1467年(応仁元年)から11年間にわたる「応仁の乱」(おうにんのらん)に先駆けて、関東で起こった戦乱です。戦いは断続的に28年間続き、関東はそのまま戦国時代に突入しました。この戦乱の発端は、その前段階に起こった「永享の乱」(えいきょうのらん)にあります。 永享の乱が起こった背景には「鎌倉公方」(かまくらくぼう:室町幕府の組織[鎌倉府]のトップで関東地方を統治する)と「関東管領」(かんとうかんれい:鎌倉公方の補佐役)の対立、そして鎌倉公方と室町幕府の将軍との対立という複雑な歴史的背景が大きくかかわっています。今回は、永享の乱をきっかけとして起こった享徳の乱についてご紹介します。

享徳の乱

長享の乱

長享の乱
「長享の乱」(ちょうきょうのらん)が起こったのは、1487年(長享元年)です。そのきっかけは、京都を舞台に10年間続いた「応仁の乱」(おうにんのらん)によって室町幕府は疲弊し、関東の支配が行き届かなくなったことにありました。今回は、18年もの長い間続いた長享の乱についてご紹介します。

長享の乱

川中島の戦い

川中島の戦い
「川中島の戦い」とは、1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)の12年間、5回に亘る伝説の合戦の総称です。宿敵である甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の支配権を巡って争いましたが、長い戦いにもかかわらず勝敗はついていません。 1561年(永禄4年)の第4次合戦の激戦が広く知られているため、その戦場となった地名から、他の場所で行なわれた戦いも含めて川中島の戦いと呼ばれていますが、一般的には川中島の戦いと言ったときには、第4次合戦を指します。

川中島の戦い

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い
1560年(永禄3年)5月19日、日本の歴史を動かす大きな合戦が起こりました。「桶狭間の戦い」です。27歳の織田信長が4,000人ばかりの兵を味方に、2万5千人もの今川義元軍に戦いを挑み、勝利しました。その歴史的な合戦には、世代を通じて胸が熱くなるドラマがあります。このような歴史的瞬間が今もなお語り継がれるのは、それを記録する人物がいたからです。その人物の名は「大田牛一」(おおたぎゅういち)。彼は、織田信長の家臣でした。最も身近な距離で、織田信長を知ることができた人物が書きつづった記録「信長公記」。織田信長が天下統一への切符を手に入れた軌跡と今川義元の敗因はどのようなものだったのでしょうか。今、「信長公記」によって桶狭間の戦いの全貌が明かされます。 どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

桶狭間の戦い

船岡山合戦

船岡山合戦
「船岡山合戦」(ふなおかやまがっせん)は、1511年(永正8年)8月に京都の船岡山周辺で起こった合戦です。船岡山は京都市北区紫野北船岡町にある標高111.7mの小さな山で、清少納言が「岡は船岡」と「枕草子」(まくらのそうし)に記していることでも知られています。船岡山合戦は、室町幕府の「管領」(かんれい:将軍を補佐する幕臣の最高職)である「細川政元」(ほそかわまさもと)が亡くなったあとの細川家の家督争いと、将軍の擁立争いをめぐる対立の中で起こった戦いです。今回はこの船岡山合戦が起こった理由から終結までをご紹介します。

船岡山合戦

注目ワード
注目ワード