【三遊亭小円歌さんプロフィール】
東京・浅草出身。和洋女子短大卒。1979年、三代目・円歌にスカウトされ入門、内弟子修業の後、三味線漫談として「あす歌」を名乗り独り立ち。92年、初代「小円歌」を襲名。翌年、国立演芸場花形演芸会「俗曲」部門で金賞受賞。日本舞踊の花柳流師範名取、「かっぽれ」などの寄席踊りも得意。母は長唄師匠として知られている杵屋志津和さん。趣味はドライブ。
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縞(しま)の着物で舞台に上がる。客席のあちこちから「待ってました」の声がかかる。三味線の弾き唄いで、都々逸(どどいつ)、端唄を演じる。このほど古いテープから蘇らせた「吹き寄せ」を初披露。曲の間を世相風刺でつなぐ。さらに、座敷踊りの「やっこさん」を踊るサービスぶり。
「めったに耳や目にすることがなくなった日本の伝統芸を一瞬にして見せてくれる。江戸の粋に加え、清潔感あふれる艶(つや)っぽさがたまらない」と高座を見たファンの熱は高まる一方。噺家(はなしか)からは、「小円歌さんにひざ(自分の出番の前)で出てもらうと、江戸の雰囲気が出て、噺がやりやすいよ」の声も多く、寄席演芸界の“高座の花”はいま、満開だ。
高校時代に女優を目指し、俳優養成座へ。講師に来た円歌師匠から、「女優になりたいならうちの事務所にこないか」と誘われた。二つ返事で承諾し、内弟子として住み込んだ。三味線を習い、1年後に、「あす歌」として、デビュー。師匠の後ろ盾もあり、ロックやニューミュージックと三味線をジョイントしたり、タップを踊ったりと新分野にもチャレンジした。
昔の曲を掘り起こすきっかけは30歳の時、師匠が倒れたこと。看病をしながら頭の中を駆け巡るのはこれまでのこと。「女優への夢を捨て切れず、与えられた仕事だけをしてきたのでは。三味線を本気でやってみよう。私が引き継がなければ死んでしまう昔の唄を掘り起こしてみよう」。戸惑いながらも、自分の真の芸に目覚めた時だった。
全国各地の講演から戻り、踊りや三味線の稽古が終わった後、深夜に新内や粋曲(すいきょく)、俗曲などの古いテープを何度も何度も聞き1人で学んでいった。頭に音が入り始めると、譜面に少しづつ起こす。テープに凝縮されている笑いや呼吸を体に覚えさせる。気が付くと、夜が明けている日もあった。
高座で初めて完成した曲を披露した時は、「三味線の手が止まらないか」と、不安でいっぱいだった。夢中で演じて高座を下りた時、亡くなった志ん朝師匠がこう言ってくれた。「小円歌らしくていいねえ。これからも懐かしい曲を聞かせておくれ」。「自分のやっていく芸はこれなんだ」と、嬉しさで涙が出たという。
大正時代の「のんき節」、「品川甚句(じんく)」「たぬき」など、1年に1曲のペースで、掘り起こしに力を注いだ。今年は暑い夏を越して、このほど10曲目の「かえるひょこ」を完成。いま取り掛かっているのは、昭和初期に人気のあった西川たつさんの「とっちりとん・浮き世節」。
三味線の糸が切れたり、曲を忘れたりと、高座での失敗は数知れない。しかし、思い出深いのは23歳の時。北海道・札幌でラジオの公開番組に出演した。三味線の音合わせをして、舞台のそでに置いた。出番がきて、そのまま弾き出した。音がまったく合わない。時間が経てば糸が緩み、音の狂うことを知らなかった。もちろん覚えたてのため、調整し、直すこともできない。高座はめちゃめちゃになってしまった。楽屋で、大泣きした。「生きている三味線のことが、なにもわかっちゃいなかったんですよ」と振り返る。
あす歌時代から芸を見守っているファンは「初代・三亀松(みきまつ)が江戸っ子ならではのしゃれた男と女のやりとりを三味線にのせていた。小円歌は、さらにその“江戸の色気”にせつなさ、優しさを感じさせるような芸人に育ってくれた。滅んでいく俗曲を生で耳にできるのもこたえられないね」と絶賛。
「この世界に入り、小さん師匠など『宝』と言われる先輩に巡り合えたことが、財産です。その人たちから学んだ『芸に終わりはない』を自分に言いきかせ、小円歌らしいといわれる芸をめざします」
【黒田 曜子、写真も】
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