スポーツ紙記者の“手作り映画賞”
第4~7回まで授賞式会場となった
東京・銀座の並木座
ブルーリボン賞は、報知新聞(スポーツ報知)、サンケイスポーツ、スポーツニッポン、デイリースポーツ、東京スポーツ、東京中日スポーツ、日刊スポーツの在京スポーツ新聞7社の映画担当記者で構成される東京映画記者会が制定する映画賞です。他の映画賞と違う点は、現場の第一線で取材に当たっている記者たちが選考し、賞を贈ること。毎年行われる授賞式も、会場の設営から照明、音響、入場者の誘導や受賞者への賞状贈呈まですべて記者が行っています。イベントの取材には慣れている記者も運営する側になると勝手が分からず、舞台裏は毎回てんやわんや。アットホームな雰囲気で行われる授賞式の司会は前年の主演男女優のコンビが務めるのが恒例になっていて、抽選で招待された映画ファンとともに受賞者を祝福します。
ブルーリボン賞の歴史は古く、創設されたのは戦後間もない1950年。読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の映画記者が中心になり、「1年間の映画界を振り返り、その成果について議論し、それを楽しみ総括することで、記者同士が勉強しよう。そのおさらいの成果を賞として世に問うのもいいではないか」と呼びかけ、「東京映画記者会賞」としてスタートしました。
第1回の授賞式は1951年3月22日、東京・中央区にあった東京劇場で行われました。記者会といっても財政は乏しく、受賞者に贈られたのも手書きの賞状だけ。この時、賞状をありあわせの青いリボンで結わいたのが「ブルーリボン」の名前の由来です。第2回からは「ブルーリボン賞」の通称で呼ばれるようになり、現在では正式名称になっています。
第4回から7回までは、東宝のヒットプロデューサーだった藤本真澄氏の協力により、同氏が銀座にオープンさせた並木座が授賞式会場に。また第4回から漫画家の横山泰三氏のデザインによる裸婦像が、第15回からはギリシャ神話の女神をあしらったシルバートロフィーが贈られるようになりました。
新たな才能をいち早く発掘
新しい才能を発掘していったのも、ブルーリボン賞の功績の一つです。第2回の三國連太郎、第8回の石原裕次郎、第9回の今村昌平監督、第11回の大島渚監督らにいち早く新人賞を贈ったのは、その例の一つです。
当初は記者の親睦的組織として始まった東京映画記者会ですが、在京の日刊紙、通信社の加盟社は最大時には17社、会員数80人を超す大所帯に変貌。規模が大きくなるにつれ、選考に対する考え方に違いが生じるようになり、60年3月には読売、朝日、毎日、東京、産経、日経の一般紙6紙と共同通信が脱退届を出す事態に。記者会は分裂し、翌年の第11回(60年度)からはスポーツ紙を中心にした9社による主催になりました。
贈呈は青いリボンで結んだ賞状と万年筆
その後、記者が賞を贈るのは報道との両立上問題があるという考え方が新聞社内で持ち上がり、分裂した7社が設立した日本映画記者会賞や、テアトロン賞(東京演劇記者会)、ホワイトブロンズ賞(地方新聞映画記者会)らの記者会賞が66年度で一斉に廃止されます。ブルーリボン賞もその流れに抗えず第17回(66年度)で休止を余儀なくされました。しかし若手記者を中心に再開を望む声があがり、73年秋にブルーリボン復活準備委員会が発足。配給収入が初めて洋画を下回るという日本映画どん底の75年度、邦画復興の願いも込めて再スタートを切りました。
現在は毎年1月に選考会を開き、作品、監督、主演男女優、助演男女優、新人、外国映画の8部門を選出。これに年によってはスタッフ賞や特別賞が加わります。
記者会は加盟各社の合資と映画会社からの賛助金によって運営されていますが、財政状態が厳しいのは相変わらずで、贈呈するのは受賞者それぞれに対する表彰理由がしたためられた和紙の賞状と受賞者の名前が刻まれたモンブラン製の万年筆1本。21世紀の今も、賞状は青いリボンで結ばれています。
※参考文献:「映画賞・映画祭大全集」(芳賀書店)、「銀座並木座 日本映画とともに歩んだ四十五年」(嵩元友子著)