飯豊山の歴史

飯豊連峰女人禁制の、信仰の山としての飯豊山の歴史は古く、磐梯町の恵日寺ゆかりの徳一や空海、行基が開いたとするなど諸説がありますが、全国各地の山岳信仰伝承に数多く登場する役行者と中国の唐時代の知道和尚が白雉3年(652年)に開山したと伝えられています。


一ノ戸制札場数度の荒廃の時期を経て文禄4年(1595年)に時の会津藩主蒲生氏郷の命により下荒井村蓮華寺(現会津若松市北会津町・廃寺)の僧宥明が登山道を再興してからは、会津側では一ノ木川入を、米沢では大日杉(飯豊町岩倉)を表参道として隆盛期を迎え、山麓の村々をはじめとして広く参拝者を集めました。福島県側では会津一円はもとより、遠く中通りや浜通りの各地からも参拝に来ていました。こうした山であったので厚く保護の手がさしのべられ、山都町一ノ木の飯豊山神社には、歴代の会津藩主から贈られた、飯豊山を保護した証である寄進状があります。同様に、飯豊町岩倉の岩倉神社にも米沢藩主が飯豊山を保護した証である奉納木札が保管されています。

一ノ木地区は、米沢に抜ける会津藩の最後の村でしたが、飯豊山に参拝する人たちの宿や土産物を売る店が並ぶ宿場としても栄えました。

 


飯豊参道は福島県の「へその緒」

飯豊山は地図を広げて眺めてみると、福島県の西北端が山形県と新潟県の境を割り入るように伸びている。ちょうど「へその緒」のような形をしているが、この不思議な地形は、約3尺幅の飯豊山の登山参道と飯豊山神社地、茶屋の敷地で成り立っている。

こんな形の理由は、明治時代に起こった福島県の県庁移転問題が大きく関わっている。

東蒲原郡は磐梯町惠日寺の寺領となって以来約700年間会津の一地域として歩んできたが、明治の福島県庁移転問題(福島から郡山に移転させようとする動き)を決着させるために、内務省は明治19年に東蒲原郡を、会津と切り離し、新潟県に移した。そのときに飯豊山神社が一ノ木村(喜多方市山都町)のものか、実川村(阿賀町)のものか内務大臣の裁定を仰ぐこととなり、明治40年に一ノ木村の主張が認められ、県境と土地と神社の帰属が福島県一ノ木村に決定した。これにより、それ以降の地図では「へその緒」のような形で明示されるようになった。