1. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(201) 100円の豪華な旅

       ロマンスカーに乗った。先頭車両の大きな窓の向こうに雄大な山々が連なる。丹沢や箱根連山ではない。長野電鉄の車窓である。かつて小田急を走った。いまは風光明媚な盆地で第二の人生を送る。座席カバーに「小布施の栗鹿ノ子」の広告があった ▼長野から湯田中まで33・2キロを結ぶ「ゆけむり」の特急料金は100円。志賀高原の手前にある高山村の山々、飯綱山、千曲川を望む豪華な旅だ。沢木耕太郎は「深夜特急1」(新潮文庫)で香港のスター・フェリーについて書いた。料金とソフトクリームの60セントで夜景を眺める「60セントの豪華な航海」と。それに引けをとらない100円のぜいたく ▼長野電鉄は、〝お下がり車両〟の宝庫だ。須坂の車両基地には成田エクスプレス、営団地下鉄、小田急ロマンスカー、東急電鉄の車両が、「どうだ」とばかりに並ぶ。すべて現役である ▼通過する駅で、子どもがロマンスカーに手を振った。鉄道博物館なみの車両を見て育てば相当の目利きになるだろう。それが人生の何になるのかというのはまた別の問題。そこに鉄道があるから好きになる ▼毎日が豪華スター競演である。それぞれの存在の濃さはインド映画風でもある。舞台の線路脇には雑草が伸びるローカル色も魅力だ。淀川長治は言っただろうか。「鉄道って本当にいいですね。では次回を。さよなら、さよなら、さよなら」と。(O)

    2. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(200) 天候トラブルもまた楽し

       この夏、ちょうどお盆の前後にあちこちで豪雨があり、帰省や家族旅行の足に影響が出たのではないでしょうか。実は私もその1人…。10日の日曜から月曜までの1泊2日、西伊豆へ行こうとした時のことです ▼心配していた台風11号は、どうやら少しそれてくれたようす。買っておいた切符は横浜駅午前9時23分発の踊り子105号。余裕を見つつ、10分ほど前に改札を入り、ホームはどこかと行き先表示板を見ると、どこにもその列車名がない ▼「そんなばかな」と思っているうち「運休」のアナウンス。直前の県西部や伊豆での雨が影響しているようで、新幹線も一時止まっているとのこと。各停は動いているというので、行けるところまで行くことにしました ▼乗った電車はほぼ時間通りなのですが、先を行っていたはずの特急「スーパービュー踊り子号」が大船駅で停車中。なんと各停が特急を追い越すという奇妙な体験。各停は、国府津、さらに熱海で乗り換えましたが、その間、さらにもう1本特急を追い越しました。アナウンスによると、その特急は95分遅れで運行とのこと ▼こちらは三島で伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換え、終点修善寺には正午少し前に、予定より1時間近くかかったけれど、無事到着できました。めったにない、面白い経験。各停の旅も結構楽しいと実感しました。(a)

    3. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(199) 士幌線が生きるまち

       湖底に沈んでいるはずの「めがね橋」が幾何学的な美しい姿を現す。北海道上士幌町の糠平、旧国鉄士幌線のタウシュベツ川橋梁である。1955年に糠平ダムが完成し水没した。水位の下がる冬から春に現れるため「幻の橋」とも呼ばれる。水量の少ない今年は7月下旬になっても湖底に戻らない ▼直径10メートルのアーチが11個連なる全長130メートルの白い橋梁は、大雪山国立公園の山々の景観と見事に調和している。地元のネイチャーツアーに参加しヒグマの出る林道を車で抜け、やっとたどり着く秘境の趣がいい。山あいの温泉として名をはせる糠平で一番の観光資源である ▼建設から77年がたち老朽化が進む。地元紙・十勝毎日新聞は昨年3月、水没や凍結の厳しい環境にさらされ「崩落の恐れ」と伝えた ▼帯広-十勝三股78・3キロ、十勝の穀倉地帯と山岳路線からなる士幌線は1987年に全線廃止となった。糠平には鉄道の記憶が色濃く残る。駅跡地は「上士幌町鉄道資料館」となり酪農製品を運んだ往時を伝える。国鉄の廃線計画に反対した地元の動きを記録した貴重な映像もある ▼木材搬出の拠点だった幌加駅は錆びたレールとともにいまも残る。背の高いフキが生い茂る跡地に立てば、かつての駅前のにぎわいを想像できる。廃線跡の一部は観光用トロッコレールになった。糠平の人たちの心の中に、国鉄士幌線はいまも走り続ける。(O)

    4. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(198) さよならハマ線205系

       横浜線の205系となかなか巡り合えなくなった。先日、珍しく相模原からH27(編成番号)の上り快速に乗ったが、途中の東神奈川で新車E233系に車両交換となった。「もう冷房の効きが悪くてね」と車掌。その後、あの編成はどうなったのだろう ▼今月からH1がヘッドマークを付けて走っている(写真)。「感謝」「ありがとう」などと書かれている。いよいよラストランが近づいた。くだんの車掌によれば、余剰となった205系はあちこちに分散疎開させられ、運用があれば回送で戻す ▼横浜線の205系は平成への時代の変わり目に投入された。それまで山手線などからのお下がりに甘んじていたので待望の新車であった。そして26年。この205系までお下がりと勘違いされて沿線住民の一人として悔しい思いをしたこともある ▼ぴかぴかのE233系への置き換えがうれしい半面、長年ひいきの電車たちが次々いなくなるのは人生にも似てさびしい。205系の営業運転終了は今月23日である。全28編成224両。うち170両はジャカルタで余生を送ることになっている(7月20日付本紙報道) ▼そのH1に乗って驚いた。車内の形式表示板がないのだ。代わりにマジックインキで手書きされて哀れである。誰が剥ぎ取ったか、残念ながら想像が及ばないわけではない。この夏場にうそ寒い光景だ。(F)

    5. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(197) 横浜から一本で(下)2階でゆったり

       横浜から、川越を経て高崎に着いたこの旅。世界遺産に認定された富岡製糸場も見学できて、3回目は帰途です。群馬県から一本で戻って来られる電車がありました ▼ご存じ湘南新宿ライン。前橋や高崎から、平塚や小田原行きが、一日中発車しています。以前は北関東から神奈川県内に来るには、上野や東京で乗り換えが必要で不便。それが今では、すっかり楽になりました ▼しかも首都圏では、グリーン券は土休日の51キロ以上でも780円で済みます。新幹線の高崎―東京間が、特急券だけで2500円近くかかることを考えれば、お得です。グリーン券は乗車前に買う必要はありますが… ▼ただし座席指定ではありません。余裕を見て20分ほど前にホームに来たのですが、すでに10人ほど並んでいました。始発駅なので、なんとか2階席の窓際を確保できましたが、途中駅からなら、席取りは厳しいかも ▼グリーン車に不慣れで知らなかったのですが、この電車ではSuicaにグリーン券情報を登録し、座席の読み取り部にタッチしておくと、座席の上に緑のライトが点灯するので、車内改札も不要とのこと。便利になったものです ▼おかげで煩わされることもなく、2階の車内からホームや沿線の風景を見下ろし、130キロ余りを2時間とちょっと。ゆったりと過ごすことができました。こんな旅もたまにはいいなあ。(a)

    6. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(196) 興浜北線の9600

       9600型蒸気機関車が引く貨物列車は、オホーツク海を望み大きな弧を描いた。背後に北見神威岬の雪山が迫る。興浜北線の斜内で降り南隣の目梨泊方向へ歩いた。列車はスローモーションのように近づいてきた。寂寥感ある景観、到着難易度も高い。鉄道ファンには「最果て中の最果て」であった ▼宗谷本線の音威子府から天北線で起点の浜頓別へ。興浜北線は北見枝幸まで30・4キロを南下する盲腸線で、1985年7月に廃止された。蒸気機関車が走ったのは75年5月まで。その2年半ほど前の72年12月23日に訪れた。たどり着くのが大変で1日1本しか狙えなかった ▼雪晴れの独特の景観をいまも鮮明に覚えている。ただ海風は冷たかった。2月は流氷で埋め尽くされる海なのだ。列車を待つ間、寒さしのぎに撮影場所の斜面で「けつ滑り」(地元方言)をした。タオルを敷物にしたそり遊びである ▼雪まみれになったが暖をとれた。やがて現れたのは2両の貨物である。力持ちの9600には物足りない。国鉄時代は、こんな辺地にも蒸気機関車が走っていた。写真を残せてよかった ▼大赤字だった興浜北線、天北線はその後、廃止された。一時期「オホーツク縦貫線」の計画もあった地域だが、いま時刻表の地図には影も形もない。鉄道のない過疎地で、特筆すべき観光地も見当たらない。再訪したいが、いまだきっかけがない。(O)

    7. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(195) 横浜から一本で(中) 祝・世界遺産登録

       横浜から電車一本で着いた川越。そのちょっと先でも、意外な「テツ旅」ができた。まずは、JR川越線を高麗川駅で乗り換えて、八高線へ。神奈川県内にはなくなった非電化区間を体験できる ▼2両編成の気動車は意外に速く、上り勾配もぐんぐん走る。座席は、ロングシートとクロスシートが半々。クロスシートは片側が2人掛け、反対側は1人掛けで一人旅にはぴったり。結構ふかふかで快適。車窓を眺めながらも、うつらうつらしているうちに高崎駅に到着。この日はここで1泊 ▼翌日は上信電鉄に乗車、目指すはもう一つの目的の富岡製糸場。高崎駅で、製糸場入場券がセットになった往復割引乗車券を買って、古びた電車に乗った。この日は世界遺産内定直後だったのに、電車内は座席がほぼ埋まった程度 ▼最寄りの上州富岡駅は、すでにれんが積みのようなデザインに建て替え済み。お祝いムードも広がる。製糸場入り口は長蛇の列で、中も混雑していたが、ボランティアの説明員の話は聞きつつ1時間弱で見学できた ▼「明治5年」のプレートをつけたれんが造りの建物をながめながら、1987年の操業停止以後も、2005年に富岡市に寄贈するまで、これら建物を維持し続けた「片倉工業」の尽力に感心。歴史も学べるテツ旅になりました。

    8. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(194) 塩狩峠のC55

       宗谷本線の塩狩峠は道央と道北の境界とされる。よく晴れた冬の日、C55は雪面を滑るように駆け抜けた。スマートな体型が人気の蒸気機関車。細身の女子スキー選手が右に左に軽快なターンをしているようである。塩狩は旭川に近く、宗谷本線特有の「さいはて感」は今ひとつ。豪雪地帯であり天候が悪化すれば風景は一変する ▼撮影は1972年12月25日。丸一日をここで過ごしたようだ。36枚撮りネガ1本に、峠を上るD51も記録されている。世間は年末で慌ただしい時期。「蒸気機関車は雪晴れがよく似合うなあ」なんてのんきに過ごした。当然、三浦綾子の小説『塩狩峠』は読んでいなかった ▼撮影には酸いも甘いもある。2年後、宗谷本線の〝悲劇〟は起こった。音威子府から乗った旭川行鈍行は記録的豪雪に行く手を阻まれた。夕闇の空が全部落ちてくるような降雪だった。周囲に何もない豊清水で運行を打ち切った ▼ディーゼルの2両編成は緊急のホテルになった。暖房は効いたが食料はない。腹ペコだ。翌朝、救援のラッセル車があんパンと牛乳を運んできた ▼車掌は一晩中、乗客の健康を気遣った。翌朝に運行再開、旭川到着の前にこんな車内放送をした。「皆様とご一緒できたのは何かの縁ではないかと…。これからのご健闘をお祈りします」。ぬくもりを感じたのだろう。一夜をともにした乗客から拍手が起こった。(O)

    9. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(193) 洞窟列車に乗って

       鉄道ノートにこういう話があってもいいと思って書く。バルカン諸国を巡ってスロベニアに着いた。ポストイナ鍾乳洞はヨーロッパ最大級とあって観光客でごったがえしていた。その奥深い神秘の洞内に案内するトロッコ鉄道も感動ものだった ▼2軸の小さな機関車が引く列車は満員になり次第発車。岩壁の迫る坑道をくねりながらかなりの速度で走る。開けた狭間もあれば、荒削りの隧道もある。身をこごめる。立ち上がったり、手を伸ばしたりしようものなら怪我をする ▼トロッコ列車は入り口から2キロほど内部にいざなう。およそ10分の乗車だが、スリルもあって遊園地気分にさせてくれる。終点はコンサートホールと呼ばれる地中の広場。回送用の線路もあった。洞窟に敷設されたこれだけの複線軌道は珍しかろう ▼そのあとはガイドに従って歩くこと1時間余。鍾乳洞はかえって人を気鬱にさせるところがあるようにも思う。流麗であればあるほど、それらを形づくった悠久のときの流れに圧倒されるからだ。100年で1センチの成長などと聞けば、私たちの一生など何であろう ▼下車後の洞内見学は写真撮影が禁止されているが、他国の団体客はお構いなしにフラッシュをたく。子どもも同じだ。誰も注意しない。「あなたたちも撮ったでしょ」と金髪の少女が口をとがらせた。撮るわけはない。帰りのトロッコに乗って「日本の美徳」を誇りたくなった。(F)

    10. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(192) 横浜から一本で(上)抜いて抜かれて

       いつも見掛けるあの電車、乗ったらどこまで行けるだろうか―。相互乗り入れが進み、通勤電車の行き先に、見知らぬ地名が増えてきた。横浜駅から一本で、どこまで楽しめるか、休日を使って出掛けてみた ▼乗ったのは東急東横線午前9時42分発の特急川越市行き。電車は東武線ので、車体前面のオレンジ色が特徴的。一本前を走っていたのは赤いラインの東急線。反対の下りには茶色のラインの副都心線。次々来る乗り入れ5社の電車にカメラを向ける鉄道ファンも ▼東横線内では菊名と自由が丘で各駅停車を追い越した。渋谷からは東京メトロ副都心線に入って急行になったが、途中でさらに一本追い抜いた。地上に出て東武東上線に乗り入れるのは、埼玉県内の和光市駅。なんとここからは各駅停車に「格下げ」 ▼同じ副都心線からの乗り入れでも、快速急行まである西武線とは大違い。おかげでここから終点まで2回も追い越された。副都心線から乗っていた老夫婦は「あれっ、さっきまで急行だったのに」とけげんそうな表情。まあいいや、こっちは急ぐ旅ではないし ▼「小江戸」「蔵の町」で知られる埼玉・川越。川越市駅到着は午前11時7分。1時間25分の小旅行は「意外に近い」イメージか。ただ、通勤用のロングシートはちょっと残念。京急の快特に使われる車両のように、ゆったり座れるクロスシートの電車がほしいなあ。(a)

    11. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(191) 上野駅の石川啄木

       上野駅15番線、線路の行き止まりに歌碑がある。「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」。石川啄木である。有名な碑だそうな。知らなかったのは「駅好き」失格であろう。短歌に疎い身にも、この駅の醸し出す独特の郷愁や哀感が伝わる ▼井沢八郎の「ああ上野駅」を聴いたことがあるだろうか。仕事で付き合いのあった警察幹部の十八番。東北地方の農家の次男や三男は、貧しさゆえ家を出て都会の玄関口・上野を目指した。そんな身の上話をし、幹部は熱唱した。さびの部分「上野は おいらの 心の駅だ」にこぶしを利かせた ▼上野をこの5月に訪れた。何年ぶりだろうか。北へ向かう旅も東京から新幹線となり通過するだけになった。吾妻線の万座・鹿沢口行き特急「草津」が15番線に入線した。こぎれいだが特徴のない列車である。そばに啄木の歌碑があった ▼久々の東北本線、蕨の変電所を見逃した。国鉄技術者だった祖父は「俺が造った」と自慢した。上野から、栃木県足利にある祖父の生家に向かう車内で変電所を指さした。祖父との旅が鉄道好きのきっかけである ▼上野は、かつて青森行き夜行急行「八甲田」を待った駅。自由席の車内は東北訛りであふれた。網棚に東京土産がどっさりとあった。皆、上京後の暮らしに感慨があったろう。首都圏出身の身であることが、ちょっと寂しくなった。(O)

    12. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(190) 手強いぞ、貨物時刻表

       書店で見掛け、何の気なしに買ってしまった「貨物時刻表」(鉄道貨物協会発行)。旅客用の時刻表と同じようなものと思っていた。2500円(税込み)と少し高かったのと、セロハンが掛けられ、中が見られないのが気にはなった ▼家で開けてみると、卓上カレンダーが同封されていたほか、数枚のダイヤグラムが現れた。得した気分の半面、「何か違う」そんな予感が広がった。地図のページを広げてみると、線も駅も少ない。四国などは予讃線だけ。「そうか、貨物列車は少なくなったんだ」。初めて、そこに思いが至った ▼かつては貨物列車は身近だった。小学校2年の時、北海道の小さな駅のそばに家があり、特急列車が来ると手を振った。それが貨物だと見向きもしない。カタンカタン、カタンカタン。音だけを聞いていた。その後、首都圏に出てからはすっかり忘れていた。 ▼メーンは「時刻表」部分だが、JR分は80ページ足らず。全国の臨海鉄道、私鉄を入れても100ページいかない。代わりに、主要機関車や貨車紹介。機関車配置表、運用表。コンテナ取扱駅の構内図。貨物列車を撮影した読者応募の写真も20ページ続く。奥が深い ▼肝心の時刻表の読み方がなかなか分からない。自分の修行不足を実感する。JR関内駅には、毎日石油を運ぶ列車が通っているようだ。早く読み解き、のぞいてみよう。(a)

    13. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(189) 上目名のC62重連

       上目名(かみめな)という駅名に、つい反応してしまうのは筋金入りの鉄道ファンだろう。北海道函館本線目名-熱郛(ねっぷ)間の山あいの小さな駅は、30年前の1984年3月末に廃止された。駅は峠のピークにあり、蒸気機関車C62重連がけん引する急行ニセコが、20パーミルの急坂を上った ▼C62のニセコが71年9月に姿を消すまで、「撮りテツ」の聖地のような存在であり続けた。消える半年前の3月28日、残雪の上目名をいく姿をとらえた。前補機C62 2号機のデフレクターには、かつて東海道本線で特急「つばめ」を引いた名残のツバメマークが光っていた ▼C62の後継ディーゼル機関車DD51は被写体の魅力に欠けた。ファンの足は遠のき上目名は忘れ去られた。1日の駅利用者は2人。廃止のころ北海道新聞は伝えた。再訪したのは2010年3月初旬。旅の途中、鈍行ディーゼルカーでそのあたりを通過した。2メートルの積雪に駅の痕跡は確認できなかった ▼C62重連が消え40年以上になる。鉄道ファンからは足を洗った。いまは温泉好きのオヤジである。ニセコの新見、五色、鯉川、薬師。山あいの秘湯をめぐる。時刻表やダイヤグラムは持たず、温泉マップを熟読する ▼重連が走った函館本線の山線にいま急行はない。昼間は鈍行が3時間に1本のローカル線である。移動の足はもっぱらレンタカー。鉄路も自分も随分と変わった。(O)

    14. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(188) 関ケ原の難儀

       止まった気がして目が覚めた。カーテンを上げるとまだ大阪駅である。運転停車。少し遅いな、と思ったが、またまどろんだ。姫路が近づくと早めの車内放送が始まった。何かあったと思う。寝台から半身を起こして耳を澄ます ▼「サンライズ瀬戸」に乗って高松に帰郷する途中であった。参加できぬとあきらめていた同窓会に行ける見通しが立った。シングルソロの寝台が取れたので、久しぶりに田舎に顔を出すことにした。仕事を終えてゆるゆると個室に収まる。そこが寝台列車の身上だ ▼車内放送は25分遅れで運行していると伝えた。前を走る貨物列車が関ケ原で小動物と衝突した影響だという。ラッシュ時間帯に入るため終着は大幅な遅れになると告げ、急ぎの客には姫路から新幹線「みずほ601号」への乗り換えを勧めている ▼同窓会は昼からだ。こちらはいくら遅れてもかまわない。それより小動物とは何だろう。放送は悲運の動物の説明はせず、各方面への振り替え輸送の手順ばかり繰り返している。岡山に50分遅れて7時17分着。終点高松には約1時間遅れとなった。高徳線特急が発車時間を過ぎて待っていた ▼後日ネットで調べ、こうした遅延例はたまにあると知った。相手はシカだのイノシシだの。寝静まった夜。その野末の変事にかかわるのも寝台列車ならでは。関ケ原の難儀は雪ばかりではない。(F)

    15. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(187) 常紋信号場

       1971年3月29日は北海道・石北本線の常紋信号場にいた。43年前の遠い昔でネガフィルムケースのメモが証拠になる。科学実験ではないが記録を残すことは大切だ。信号場開設は100年前の1914年。旅客扱いもする仮乗降場として時刻表の生田原―金華の間に掲載された。いま「常紋」の2文字はない ▼冬はまさに極寒、信号場の寒暖計が氷点下20度以下を指していた記憶がある。ダイヤモンドダストが舞う。汗を吸ったマフラー代わりのタオルを大気にかざすと棒のように凍り付いた。空気が「キーン」と音をたてているようだ。大切なカメラを体温で温めた ▼蒸気機関車D51がけん引する貨物列車が急な坂を上る。最後尾に後補機がつく「重連」、早足で競争すれば追い越せそうな速度である ▼信号場の近くに常紋トンネルがある。「幽霊が出る」、係員に脅かされた。過酷な建設作業の犠牲になった労働者が壁に埋められている。真顔でそう言った。緊張し高まる心臓の鼓動を聞きながら500メートルのトンネルの闇を抜けた ▼極寒ゆえの楽しみもある。札幌発の夜行急行「大雪6号」を早朝、生田原で降りる。夜明け前の冬空は闇より星明かりの部分のほうが多い。星が地上の雪を照らしほのかな明るさに包まれる。星と雪の白い世界に酪農農家の黄みがかった電球がともる。極寒の美しさ。その光景に、2度出会ったことはない。(O)

    16. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(186) 釧路ではC11が健在だった

       真っ黒な蒸気機関車は、白銀の世界がよく似合う。改めてそう思った。2月の釧路市訪問に合わせて、JR釧網線を走る「SL冬の湿原号」に乗車できた。 ▼冬の湿原号は、JR北海道のC11がけん引する臨時列車。2000年に運行開始し、毎年1~3月に走っているのだそうだ。名前は聞いてはいたが、遠い地だけに、乗るチャンスはないと思っていた。 ▼この時期の釧路市訪問が決まって、もしやと思って調べていたら、ちょうど運行期間内。便利なことにJR北海道のホームページから釧路発標茶行きの予約もできた。厳冬期のローカル線。客車5両編成。「そんなにお客がいるのかしら」。逆に心配になった。 ▼余計なお世話だった。空っぽだった朝の釧路駅。C11の汽笛が聞こえるころには、カメラを持った人たちが集まりはじめ、入線すると黒山の人だかり。子供は運転席で記念撮影も。 ▼乗ってみれば、列車はほぼ満席。日本人ばかりではない。隣に座ったのは台湾からの家族連れ。「雪が見たくて、2度目の北海道」。うれしそうに語った。道中ではタンチョウも舞い、終点・標茶駅では、地元コーラスグループが歓迎の歌声。 ▼反対のホームに回り、あらためてC11の雄姿を撮影。ディーゼル機関車の補助もなく、ここまでよく走った。これからも元気に、走り続けてほしい。(a)

    17. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(185) 長万部のC62ニセコ

       北海道函館本線の急行ニセコは魅力あふれる被写体である。長万部-小樽間の峠で、蒸気機関車C62重連が客車をけん引する場面が特にいい。上りの「ニセコ1号」、下りの「ニセコ3号」。鉄道ファンは、それぞれ列車番号104レ、103レと呼んだ。1日に二つの列車を狙った ▼「1971年3月27日」。手元のネガフィルムのケースに記してある。下りニセコ3号の長万部発車である。当時の時刻表によると午後4時19分。長万部で前補機C62 2号機が連結され本務機とともに上目名、倶知安など四つの峠越えに向かった。発車から4コマがある。一枚ずつ懸命にフィルムを巻き上げシャッターを切った ▼ネガの次のカットは翌28日の上目名周辺。雪山の斜面に上り俯瞰気味にC62重連をとらえた。40年以上前のこと。長万部と上目名のカットの間にある自らの行動は思い出せない ▼飯を食い布団の上で寝たはずである。倶知安のユースホステルに宿泊したのだろうか。あたりは全国有数の温泉地帯だが、中学生の当時は無縁だった。撮影以外に興味はない相当のオタクだったようだ ▼上目名の次、翌29日のカットは道東の石北本線常紋信号場。おそらく札幌から夜行急行「大雪」の自由席で移動した。カメラはペンタックスかキヤノン。3日かけて撮影したのは36枚撮り1本だけ。中学生にとってモノクロフィルム1本は貴重品だった。 (O)

    18. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(184) 最終列車と痛みの記憶

       どこで見送ろうかと思案していたが、思い立って秋田、青森まで行くことにした。14日夜の出発を最後に廃止された上野―青森間の寝台特急「あけぼの」のことだ。駅はきっと大勢の人出だろう。少し離れた高い所で一人静かに眺めようと思う ▼薄暮の温泉町の駅で降り、奥羽線を見渡せる丘を目指す。だいぶ雪も解けたろうと思って来たら、案に相違して吹雪いてきた。そこを上野行き最終「あけぼの」が光の帯のように通り過ぎる。夜汽車には雪が似合う ▼「お客さん、あけぼのですか。ラストランだもんねえ、寂しいねえ」。その晩泊まった駅前旅館で、おかみさんに看破された。照れくさいけれど、地元の人の「寂しい」を聞けてうれしいとも思う ▼翌朝、青森行き最終を撮影するために訪れた場所は、前日より雪深かった。慎重に歩いても吹きだまりで腰まで沈む。雪の下に埋もれた低木の枝や幹が、すねや太ももや腕にぶつかる。ひっくり返りながら斜面をよじ登ると、ようやく線路が見えた。だから、最後の「あけぼの」は痛みの記憶とともにある ▼それはそうと、来るときは不本意ながら新幹線に乗った。夜行列車を撮影するのに癪だ。せいぜい帰りは寝台車でゆっくり…と思ったが、もうそんな列車はないのだった。(さ)

    19. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(183) 釧路の炭鉱と鉄道(2)

       前回に続き、北海道・釧路市立博物館の訪問記。2月9日に開かれた「鉄道と炭鉱の話を聞く会・雄別鉄道編」を紹介する。釧路と炭鉱町・雄別(駅名は雄別炭山)間44キロを結んだ鉄道は、1970年の炭鉱閉山とともに廃線になった。今回OB7人が思い出を語った ▼大正時代から石炭を産出した雄別。その石炭を運んだ雄別鉄道には、さまざまな蒸気機関車が走った。「205号は小型の機関車だったが、頭を振り振り、よく走った」「国鉄のC56形と同形の1001号は、戦時中に米軍機の射撃を受けた」。その後白く塗られ、冷蔵庫のテレビCMにも出演したこともあった ▼雄別炭山近くは、1000分の17という急勾配が続く。「水や石炭が足りないと登らなかった」「下りは機関車のブレーキだけでは足りず、貨車の上を飛んで、1台1台かけて回った」。まだ1編成全体をコントロールできるブレーキがなかったという ▼時代は石炭から石油へと変わりつつあった。雄別の石炭生産は良好で線路も改良した矢先、「まさかと思った」とOBの1人。傘下炭鉱の事故で資金繰りが急に悪化し、会社ぐるみ閉山が決まった ▼ちりぢりになり、あと数年で半世紀。「このような鉄道があったことを覚えていてほしい」と訪れた人に声を掛けた。雄別鉄道の「遺産」は、釧路市内の「釧路製作所」と「炭砿と鉄道館雄鶴」にそれぞれ蒸気機関車が保存されている。(a)

    20. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(182) 釧路の炭鉱と鉄道(1)

       「初夢」妄想に書かせていただいた初夢の一つがかなって、厳寒の道東を訪ねることができた。釧路市立博物館で開かれた「釧路炭田の炭鉱と鉄道展」とその関連イベント「鉄道と炭鉱の話を聞く会・雄別鉄道編」に参加した ▼幕末以来、日本有数の産炭地だった釧路周辺。五十数年前に私が生まれた「雄別」は、そんな炭鉱町の一つ。当時の阿寒町の一角、最盛期の雄別炭砿の従業員は3000人以上、周辺の人口は1万2000人にも。釧路と結んだ雄別鉄道では石炭満載の貨車や炭鉱マンを乗せた列車が行き交っていた ▼だがその後、国のエネルギー政策の転換もあって炭鉱は次々閉山。雄別炭砿も1970年に企業ぐるみで山を閉じた。町も鉄道も姿を消し、従業員も全国に散らばっていった ▼今回の展示会場には、雄別鉄道に関する資料や写真が並んでいた。関係者が大切に保管していた蒸気機関車のナンバープレート、切符、タブレット、雄別炭山駅に掲示されていた時刻表や運賃表も。44キロ先の釧路までは2等で220円、札幌1860円、東京・横浜へは4750円とあった ▼企画した学芸員の石川孝織さんは、雄別などの炭鉱や鉄道OBから話を聞き、北海道新聞に1年半に渡って連載してきた。展示会はその集大成だ。「話を聞く会・雄別鉄道編」については次回に報告したい。(a)

    21. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(181) 幌延の夜

       幌延は「ほろのべ」と読む。北海道の宗谷本線にある。豪雪、極寒の地である。この先、最北の駅・稚内まで続く鉄路は荒涼とした泥炭地を行く。「さいはて」という言葉がよく似合う。一人旅がやみつきになる ▼自宅の倉庫でネガフィルムを見つけた。36枚撮りのモノクロ。紙のフォルダーに「1972年12月24日」と記してあった。現像液の酸っぱいにおいがする。鉄道ファンであった約40年前、冬の北海道を旅した。少年時代の記憶をたどりたくなった ▼凍り付いた夜、蒸気機関車C55は発車を待っていた。構内の照明灯が黒い巨体を浮かび上がらせる。水蒸気の排出音が人けのない駅に響いたであろう。同じ場面は3カット。発車して遠ざかる場面が続くコマにあり、ここで下車したようだ。撮影ノートは発見できず、ネガから推測するしかない ▼幌延の質素な駅前食堂でカレーとラーメンの豪勢な夕食を取ったことはあるが、この夜だったか。クリスマスイブの華やぎは記憶にない。国鉄当時は日本海沿いに留萌に至る羽幌線の分岐駅で、寂れながらも鉄道の拠点だった。羽幌線は廃線となった。幹線だった宗谷本線もいまやJR北海道の地方交通線扱いである ▼そのときから幌延を訪れたことはない。最北の地では、天北線など辺境を行く路線が消えた。手元に残る約100本のネガから、北辺の機関車の勇姿を探してみよう。(O)

    22. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(180) 大雪の日の横川

       碓氷峠越えの廃線跡を歩きたいと思っていた。それで横川行きの「第3回カナロコ列車」に応募した。現地での自由時間もたっぷりある。ところが当日は大雪。目算は出掛ける前から外れたが、それでも行きたい気持ちに変わりはなかった ▼横川駅ホームでは地元の高校生たちが和太鼓演奏で歓迎してくれた。だが「鉄道文化むら」には入場できたものの、雪深く、あちこち歩ける状況ではなかった。折り返す列車もいったん回送されてしまい、わがツアーは峠下の袋小路で進退きわまる形となった ▼かつては横川での機関車連結の間に釜めしを買うのが信州に入る「儀式」だった(今尾恵介著「鉄道の峠」)。その名物駅弁も団体客を前にすぐ売り切れた。今では一日どのくらい出るのかと尋ねたが、販売のおばさんは「すみません」と答えるばかり。苦情と間違われたらしい ▼構内は小さくなった。考えてみればここで下車するのは初めてだ。駅前とはいえ、釜めし店のほかはコンビニひとつ見当たらない。酒やつまみの補給もかなわない。中山道の宿場近くでありながら人通りもほとんどなく、しんしんと雪が降っていた(写真)▼ 信越本線の往年の要衝。その殷賑と活気。しのぶべき思い出も、みな白く覆われていた。なるほど、名だたる難所は今も同じなのかも。また来よう。カナロコ列車ともども出直しである。(F)

    23. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(179) 東横フラワー緑道

       みなとみらい線が開通10周年を迎えた。横浜の観光地、元町、中華街やみなとみらい21地区を沿線に持ち、東急東横線を通じて東京メトロ副都心線、さらに東武東上線、西武池袋線に乗り入れる皆さんご存じの人気路線。今回の目的はそこではない ▼「そういえば、アレはどうなっただろう」と思い立って東横線東白楽駅で降りてみた。アレというのは、みなとみらい線開通と同時に地下化された東横線の地上部分。遊歩道になったはず… ▼東白楽駅は昔通りの高架駅。降りて県道を渡ると高架線の横に「東横フラワー緑道」の掲示。高架線は次第に下がりトンネルに入る。緑道は逆にやや上ってトンネルの上に出る ▼ここからは、線路の真上に沿って行くようだ。花壇とトンネルの排気口が並び、電車が通過すると「シャー」という音が漏れ聞こえてくる。地上を走っていたころは、もっと騒がしかっただろう ▼国道1号を渡る歩道橋は、当時の高架を活用したという。遊歩道にしては幅が広く、ゆったりとした橋。渡ったところが反町駅。さらに行くと、やはり東横線が走った高島山トンネル。夜間は通行止めとのこと ▼通り抜けるとそこはもう横浜駅近く。ゆっくり歩いて40分。下町散歩を楽しみ、ちょっぴり汗をかいた。今度はタオルを持ってこよう。反町の駅前には銭湯もあったし。(a)

    24. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(178) こまち300キロは夢の中

       秋田新幹線スーパーこまち11号はいつの間にか東京を出発した。発車と同時に缶ビールを開けるはずだった。車内放送のない静かな滑り出しにタイミングを失った。新青森行きのはやぶさと連結された盛岡までの区間、時速300キロで走行する。ほろ酔い気分でスピード感を味わおうと思った ▼東京の失敗は上野で取り返した。ロング缶をプシュッ。でも、速度はなかなか上がらない。つい、東京・駅ナカで仕入れた山形の銘酒「上喜元」に手を出した。寝不足と多少の仕事疲れから、ほろ酔いを通り越すのに時間は掛からなかった。雪景色をうつろにながめた ▼目を覚ますと盛岡を過ぎ田沢湖線に入っていた。谷あいの雪はだんだんと深くなった。出したであろう最高速度のことを車掌に尋ねた。いつもどおりに300キロ。あっさりと事務的な答えだった ▼幼い頃、210キロ走行の東海道新幹線を驚きと尊敬の念で見つめた。テレビが映し出した速度計に興奮した時代は過ぎた。春のダイヤ改正で秋田新幹線「E6系」は最高速度320キロになるが、話題にもならない。様変わりである ▼旅の目的地は田沢湖から路線バスで1時間ちょっとの玉川温泉だった。医者に最期を宣告された人々が一縷の望みを湯治に託す。湯船に浸かり、居合わせた人たちの闘病談義を聞くと、新型車両だの、最高速度だの、といった話題はどうでもよくなった。(O)

    25. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(177) 「やこうれっしゃ」と「上野駅の幕間」

       西村繁男さんの絵本「やこうれっしゃ」と、本橋成一さんの写真集「上野駅の幕間」を長らく愛読している。いずれも刊行は1980年代前半。東北・上越新幹線が開業し、鉄道の姿が大きく変わろうとしていた ▼「やこうれっしゃ」は、上野と金沢を結んだ急行「能登」の車内を、まるで客車の壁を取り払ったかのような真横からの視点で描いた。手土産の包みを網棚に載せ一杯やり始めた男性、ボックスシートに座り寝苦しそうな青年、寝台車で夜泣きする赤ん坊を、ベッドから起き出してあやす若い夫婦 ▼「上野駅の幕間」に登場するのは、ターミナルに集い、通り過ぎた人々だ。プラットホームに新聞紙を敷いて何時間も列車を待つおばあさん、帰省する安堵感か、酒瓶を手に線路に向けて立ち小便するおじさんも ▼昨年、作者のお二人に会う機会に恵まれた。西村さんは「多様な存在が共存できる世界がいい」と言い、本橋さんは「当時の上野駅にはいろんな人の居場所があった」と話した。そう、両作品からは、なんとも言えぬ心地よさが伝わってくるのだ ▼今や夜汽車の命脈は尽きかけ、上野は駅ナカに改装された。古びた列車や薄汚れたコンコースが一新されたことと引き替えに、何を失ったのか。そろそろ振り返る時期だと思う。(さ)

    26. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(176) 「初夢」妄想

       明けましておめでとうございます。2014年の第1回は、「初夢」ではないけれど、ことし行ってみたい「テツ」な場所を考えてみました。 ▼最初は思いっきり個人的な内容。1月末から3月末まで北海道・釧路市立博物館で開かれる企画展「釧路炭田の炭鉱と鉄道」。私の出身地を40年ほど前まで走っていた雄別鉄道など、釧路周辺の産炭地を走った4つの鉄道にまつわる展示や講演会がある。 ▼3月のダイヤ改正で廃止になる寝台特急「あけぼの」は昨年乗れたが、5月に廃止予定のJR北海道の江差線木古内駅―江差駅間はまだ乗っていない。駆け込みで乗れるかどうか。同じ寝台でも電車特急の「サンライズ出雲」は当分続きそうだが、出雲大社の遷宮人気が一段落したころを狙って乗ってみたい。出雲まで行くのなら、一畑電車や、スイッチバックの出雲坂根駅のある木次線にも足を伸ばしたい。 ▼18段連続スイッチバックの立山砂防工事専用軌道は昨年、悪天候で乗れなかった。ことしはいっそのこと、スイッチバックやループ線など山岳鉄道の要素が集まっている台湾の阿里山森林鉄路に挑戦するか。 ▼海外ではないけれど、離島中の離島? の南大東島にはかつて特産のサトウキビを運んでいた「シュガートレイン」の蒸気機関車が保存されている。鉄道復活を目指している南大東村の話も聞きたい。これら全部行ければこの欄のネタにも困らないけど、それはまた夢のまた夢?(a)

    27. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(175) 秘境駅をなぜ目指す

       「秘境駅」を訪れたことがある。気ぜわしい12月末だった。静岡県の大井川鉄道井川線「尾盛(おもり)」。無人駅で周囲に人家はない。外へ通じる人道すらない。落葉した山肌が迫る。枯れ葉が地面を転がる音が響く静寂である。「何もないのが魅力」。ベンチに置かれたノートに誰かが記していた。僻地にある駅がいま静かなブームだ ▼尾盛にはかつてダム建設宿舎があり駅となった。工事が終わり宿舎は消えたが駅だけは残された。急峻な谷あいに、暮らしと隔絶された不思議な空間ができた。そこではたった一人、何かと向かい合える ▼秘境駅は、鉄道ファンの牛山隆信さんが名付けた。全国で寂れた駅を探し、「秘境駅へ行こう!」(小学館文庫)などを著した。その昔栄えた土地から人の営みが消えていく。だから秘境駅が生まれる。過疎が進む地方の姿を象徴している ▼尾盛に降り数時間、冬の陽が傾いた。寒さが襲い、クマと出会う恐怖もこみ上げてきた。列車の走行音がレールを通してかすかに聞こえた。ディーゼル機関車がぬくもりを運んできた ▼都会の騒々しさを離れて一人になりたいのなら山や冬の海辺でもいい。なぜ秘境駅なのだろう。そこにレールがあるからなのか。たった一人、過ごしていてもレールの向こうには人の暮らしがある。人とつながっていることの幸福感に気づかされる。さて、次はどの秘境駅を訪れようか。(O)

    28. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(174) 遠回りが楽しい

       乗りたいのに、まだ乗ったことのないローカル線がある。天竜浜名湖鉄道もそのひとつだったが、今秋、出張の帰りに寄り道した。かつての国鉄二俣線。海沿いの東海道線が艦砲射撃で不通に陥る事態に備えた戦時バイパス線であった ▼新所原駅から東海道線と分かれ、浜名湖北岸を迂回して掛川で再び東海道線に戻ってくる。JRで行けば1時間足らずのところ、途中36駅に止まりながら2時間以上かけてたどり着く。全線を乗り通すのが楽しいというのはもはや浮世離れに等しい ▼沿線は懐かしい里山風景。ミカン山や茶畑、湖面も望める。1両のワンマンカーだが、昼間の乗客は少ない。5つめの駅の奥浜名湖でおばさんの4人連れが降り、とうとう1人かと首を伸ばしてみたら、ボックス席にもう1人いたのでホッとした ▼斜面にできたフルーツパークという小さな駅があって、今度は4人連れのおばあさんが乗ってきた。同じようなリュック、似たような帽子、一様に曲がった腰。ロングシートに仲良く並んで話が尽きない。4姉妹だろうと想像した ▼木造駅舎も残る。天竜二俣で運転士が交代した。遠州森(写真)からは高校生の下校の一団。床に座り込む者もいて車内の雰囲気は一変した。掛川に着いてたまらず4姉妹に尋ねた。「そっくりだって」と彼女らはくすくす笑った。違ったのである。(F)

    29. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(173) 消えるあけぼの

       「とうとう」そして「やっぱり」。「ブルートレイン全廃」の記事が神奈川新聞にも掲載された。「あけぼの」が来春、「北斗星」が2015年度中に廃止の見通しとのこと。青い塗装の寝台列車がなくなる ▼報道のちょっと前、そんな「あけぼの」に乗る機会があった。寝台車には何回か乗ったが、今回は初めての個室。といってもB寝台の「ソロ」は、普通の2段式寝台と変わらぬ値段で乗れるお得な個室だ ▼午後6時20分過ぎ、青森駅で乗車。予想はしていたものの、やはり狭い。部屋は上段。通路から階段を数段上り、ドアを開けてさらに数段。寝台の床板とベッドは折りたたまれていて、広げると入り口を半分ふさぐ。シーツは自分で広げる ▼車内放送によると、列車は「満席」とのこと。結構人気だ。浴衣に着替え、買っておいた弁当とカップ酒を折りたたみ式のテーブルに並べる。誰に気兼ねすることなく、ささやかな「宴会」を始めた ▼天井まで広がる窓から、天気がよければ見えるはずの「満天の星」は、残念ながら曇っていて見えず。それでも時折見える街の灯をさかなに杯を重ねた。途中、線路に立ち入った人がいたとかで、30分ほど遅れが出た ▼それが早朝5時過ぎ、高崎に着くころには見事に遅れを取り戻していた。上野到着は午前7時ちょっと前。青森から12時間半かけた長旅が終了。カメラを構えた鉄道ファンが大勢出迎えてくれた。(a)

    30. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(172) 名古木の収穫祭

       紅葉には一升瓶がよく似合う。丹沢や大山は色を増しつつある。週末の日曜日、小田急線の伊勢原、秦野駅前は散策へ向かう大勢のハイカーたちでにぎわった。山歩きを前にした山ガールたち(ちょっと年配者が多い)。水の補給やトイレのタイミングの打ち合わせに余念がない ▼わたしはザックに命の水(日本酒)の一升瓶を潜ませてある。秦野から蓑毛行きバスで10分弱の名古木で下車。丹沢登山口から、はるか遠いゆえ「不審な人物」との視線を浴びたような気がした。目的は棚田の収穫祭である ▼午前10時半の棚田、既に大宴会が始まっていた。一人一品持ち寄り、偽装などない自慢の手料理70種類が並ぶ。準主役の一升瓶もごろごろある。議論好きな面々は勢いよく命の水を補給する ▼世界一の大型コンピューター制作に挑戦した地元在住・在勤のエンジニア。定年後は森づくりに取り組む。里山再生とは常緑広葉樹の森を復活させること。そう力を込め、ぐいっと酒をあおる。鎮守の森がもともとの風景、神社でドングリを拾い里山に植えよう。別の酒飲みが気勢を上げる ▼正午までにはみなできあがった。丹沢の紅葉は東北の寒冷地とは異なる。里山の落葉広葉樹の赤は穏やかだ。モミジよりの参加者の顔のほうが赤かった。(O)

    31. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(171) 夜汽車に乗る人たち

       青い客車を連ねた寝台特急「ブルートレイン」が近い将来、なくなるらしい。JRからの正式発表はないが、新聞各社が先走って上野―青森間の「あけぼの」廃止を報じている。残念でならない ▼航空機や夜行バスに押され利用客が減ったとか、新幹線開業に伴ってとか、車両が老朽化したとか。夜行列車が廃止されるたびに毎度聞かされてきた「理由」を今回も。むなしさを覚える ▼全く同じ区間に新幹線があるから、というなら(無理やりにでも)納得できないこともない。だが「あけぼの」の場合はそうではない。鶴岡、酒田、羽後本荘、東能代、鷹ノ巣、大館と、どの新幹線からも不便な都市を、落ち穂拾いのようにつないで走る。上り列車に乗っていると、小さな駅に停車するたび、数人のお客が荷物を抱えて乗り込んでくる。週末でも観光シーズンでもない平日に、だ。上野に着くころには100人を超えていることも珍しくない ▼「娘が倒れたという連絡が入ったんです、切符を取っていないけれど乗せてくれませんか」。そう懇願した客の表情が忘れられないと、かつて東海道・山陽線のブルトレに乗務した車掌さんに聞いた。新幹線で出かけて、駅前の瀟洒なシティーホテルに泊まる旅もいいだろう。だが、夜間に移動せざるを得ない人たちもまた、いる。「時代の流れ」にかこつけて、「切実な足」を奪っていいのか。(さ)

    32. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(169) 青函トンネル記念館

       青森県の竜飛崎近くにある「青函トンネル記念館」を先日訪ねた。青森駅から電車と気動車を乗り継いで着いた三厩(みんまや)駅から、さらに町営バスに乗り換え、合計2時間半。津軽海峡の強風吹きすさぶ中に建物はあった ▼本当はそのすぐ近くにある竜飛海底駅を見たかった。北海道新幹線の工事に伴い、来年3月に駅自体が廃止になる。その駅に降りられる唯一の手段はJR北海道主催の「見学ツアー」。冬季休業に入る11月10日が最後の運行とあって、この秋は人気が高く、切符が入手できなかった ▼代わりに選んだのがここ。記念館に入ると、真っ先に地下へ向かうケーブルカーの券を確保した。車両は分厚い扉をくぐり、海面下140メートルにある「体験坑道」まで、ゆっくりと降りていく。そこはトンネル建設時にも使われた作業坑の一部だ ▼長さ53・9キロ。世界最長の海底トンネルは、工事に20年以上かけ、1988年に開業した。体験坑道には実際に使われた機材や当時の写真が展示され、作業の厳しさを伝えている。記念館からの利用者はホームに行けないが、数百メートル先には、竜飛海底駅があり、万一の際の避難所もある。 ▼何回か青函トンネルをくぐったことはあったが、海底駅や坑道のことまで思いは至らなかった。工事での犠牲者は34人に上ったという。今度通る時は、トンネルの歴史を振り返ろうと思う。ただ、海底駅には降りてみたかったな。(a)

    33. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(169) 三陸鉄道は元気のもと

       岩手県の三陸鉄道(三鉄)で新人運転士が初の乗務に臨んだ。そんなニュースを共同通信は11月1日、全国に配信した。第三セクターのローカル鉄道の話題としては、記事60行で写真付きと破格の扱いである。全面復旧を目指す三鉄の強い意志は、被災地やメディアに何かを訴えかける ▼東日本大震災の直後に入社。津波で約5・8キロの線路を失った三鉄でがれき撤去、事務所の片付けに追われた後、乗務訓練を受けた。2年7カ月後にデビューした20歳の新人は「三鉄は復興のシンボル、地域を元気づけたい」と語った。打ちのめされても常に前を向く姿勢、逆に元気をもらう ▼2011年6月、三陸を訪れた。橋は崩れ落ち、レールはねじ曲がり、がれきに埋もれた鉄路。絶望的な光景が広がっていた。訪れた宮古市の三鉄本社は、意外にも活気があった。既に一部区間で運転を再開、社員は「何年かかっても復旧させる」と穏やかに、確信を込めて話した ▼三鉄は14年4月、3年ぶりに全面復旧する予定である。津波直後の避難所で高齢の漁師は、流された船への悲しみと同様の思いを三鉄に向けていた。「船も鉄道もここでは欠かせない」と ▼被災地では、赤字ローカル線復活か、バス輸送への転換か、という議論もある。ただ三鉄は、なぜか人を元気にする。(O)

    34. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(168) ハバロフスクまで(下)

       郷に入れば郷に従うほかない。ウラジオストク駅に来た。ハバロフスク行き寝台急行オケアン号は既に入線していた。石造りのキロポストにはモスクワから「9288KM」とある。時刻表もモスクワ時間で統一されている。さすがシベリア鉄道、とは思う ▼それにしても極東ロシアも蒸し暑い(ツアーは8月)。発車前は空調がきかず、何もする気になれない。コンパートメントは4人部屋。ベッドを仕切るカーテンもなく結構狭い(写真上)。ツアーでは2人ずつの割り振りだったが、見知らぬ4人での長旅なら息が詰まる ▼18両ほどの長大編成はベルが鳴るわけでもなく動き出した。女性の乗務員が検札に来たが、「切符(写真中)は添乗員が持っている」と答えたところ、いやな顔をした。もとより人家とてない沿線、車窓は闇に沈み、樹林らしい影が過ぎるばかり。何も見えないぞ。ぼやきながらウオッカを飲んだ ▼目覚めると、湿地帯にかかっており、朝焼けが広がった(写真下)。トイレが混雑するので早めに通ったが、何しろ紙を流すべからず。スリッパの足元は水浸し。こりゃ、モスクワまで行けと言われても無理だな、と悟った。到着のハバロフスク駅では構内の写真撮影が禁止されていた ▼帰りの飛行機内で若いロシア人女性が話しかけてきた。彼女は、えっ、と驚くのだ。「私たちはもう乗りませんよ」。かつて横浜港発の洋行にあこがれた世代としてシベリア鉄道の行く末を思いやった。(F)

    35. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(167) 幻の万世橋駅

       JR中央線の御茶ノ水駅と神田駅の間。上下線の間に、草むしたプラットホームらしきものがあるのに気付いたのはいつだっただろうか。かつて鉄道博物館につながっていた。その昔は万世橋という中央線の始発駅だった。そのホームに降り立つことができるようになった。 ▼博物館移転後、JRが再整備して先月、ホームとその下にできた商業施設「マーチエキュート神田万世橋」。オープン直後に早速行ってみた。古びたガード下を想像していたら、れんが造りのアーチ橋はしゃれた装い。中央の入り口から上る階段は、1912(明治45)年の開業時からのもの。 ▼上っていった先が、例の場所。ガラスに囲まれたそこは、まさにホーム。中央線の上下線の間で、ガラスのすぐ向こうで電車が行き過ぎる。カメラを構えた鉄道ファンらしき人だけでなく、家族連れや若い女性、カップルもたたずむ。 ▼なるほど、ホームの先や階段の下にはおしゃれなカフェや小物を扱うショップが並ぶ。と思ったら塩辛が自慢の居酒屋もあって、なかなかあなどれない。初代以来の駅舎を支え続けてきたレンガ造りの土台、鉄道博物館にあったレールの一部などがあちこちに。 ▼ふと裏側に出ると神田川に面したテラス。川面を水上バスが走る。一帯が歴史を感じさせる場所になっていた。そういえばもう一つの幻の駅。かつて地下鉄銀座線にあった萬世橋駅の跡もすぐそこ。「そこも見たい」というのは贅沢か。(a)

    36. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(166) 9600-きゅうろく-

       風格ある黒い巨体である。初秋の穏やかな湖畔の風景から浮き出るような存在感がある。愛称は「きゅうろく」。大正5年生まれの蒸気機関車だ。北海道のオホーツク海沿岸で貨物を引いた働き者だった。いま第二の人生をひっそりと送る。火は入っていない。静態保存といわれる ▼「きゅうろく」とは旧国鉄の9600形。廃線となった湧網(ゆうもう)線の卯原内(うばらない)駅跡地にたたずむ。機関室の向こうに淡い青の能取湖が見える。湧網線は網走から中湧別まで89・8キロ、鈍行で3時間の鉄路だった。昭和62年3月、国鉄分割民営化の直前に消えた ▼オホーツク海やサロマ湖を望む全国有数の美しい自然を走った。「都会の人間にはこういう超景色が胸にしみる」。サロマ湖沿いの雄大な車窓を、鉄道紀行で有名な故宮脇俊三さんは「最長片道切符の旅」(新潮文庫)で、そう記した。訪れた9月、群生するサンゴ草が湖畔一面を赤く染めていた ▼粘り強さが身上の「きゅうろく」は主に貨物を引いた。北海道や九州の石炭輸送で汗をかいた。あまたの蒸気機関車の中で最も長く現役を続けた ▼近代化をけん引した産業遺産の象徴「きゅうろく」。もし、いま湧網線を走っていれば、JR北海道の「宝」といえる観光路線になったはずである。(O)

    37. 鉄道

      鉄道コラム前照灯(165) 北海道の鉄路

       JR北海道の特急「スーパー北斗」といえば、1990年代に中高時代を過ごした鉄道ファンにとって一つの憧れだった。函館―札幌間の所要時間で3時間を切るために、道内屈指の大駅・長万部をあっさり通過。最速2時間59分を「2時間台」といった当時の宣伝文句に苦笑もしたが、競合の航空路線が衰退したと聞いて鉄道びいきには小気味よく思えた ▼それから20年余り、車両も会社も劣化したのか、列車火災に脱線と事故が止まらない。JR北海道の〝赤字体質〟に批判が集中している。でも、ちょっと待って、と思う。東京や大阪の私鉄とは訳が違う、そもそも北海道の鉄路は利益のため敷かれたのではなかったのに ▼幹線とローカル線はよく、動脈と毛細血管に例えられる。ローカル線があるからこそ、地方の隅々にまで血が行き渡る。一方で、北海道の閑散線区は90年代初頭までに廃止され、稚内、網走、釧路の三方に通じていた夜行列車も数年前に消えてしまった。宿代を浮かせつつ旅情を味わう貧乏旅行は、もうかなわない。そういえば最近、道内を列車で旅する学生を見かけなくなったような… ▼軌道の狂いを放置したことに同情はできない。でも、吹雪を物ともせず定時で走る「毛細血管」たちのたくましさもまた、よく知っている。今はただ、数年後に大動脈・新幹線が函館へ伸びてくることが心配でならない。(さ)

    38. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(164) 路面電車天国・富山

       富山には、次世代型路面電車・LRTがあるとは聞いていた。先月書いたように、立山砂防工事専用軌道の見学会が中止になって落ち込んでいたが、気を取り直して富山ライトレールの始発、富山駅北電停に向かった ▼おっ、かっこいいじゃないか。そう思った。超低床式の車体は、白を基調にしながらも、編成ごとに決められたアクセントカラーが美しい。すっきりしたデザインはヨーロッパの路面電車のような印象 ▼リュックを背負って、いかにも観光客の私たちを見ると、かわいらしい制服を着たアテンダントが近寄って「ご用はありませんか」。昼食にお勧めの店をいくつか聞き、マップもいただいた ▼港町・岩瀬浜までを結ぶかつてのJR富山港線。国鉄時代の旧型電車が1時間に1~2本のペースで走っていたが、2006年に3セクが経営を引き継ぎ、車両のほか線路も一部路面に変更。今は本数が3倍以上。サービスがよければ、乗降客も増えるのも当然だ ▼富山駅を挟んだ南側には、やはり路面電車の富山地方鉄道市内軌道線があるが、ここもほぼ同形式の超低床式電車を導入。線路を一部引き直し、環状運転も始めた。ライトレールとの相互乗り入れ計画もある。高岡市を走る万葉線も、3セク化を契機に乗客数が下げ止まったという。富山県は路面電車の天国だった。(a)

    39. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(163) 列車は走るか陸前高田 2013秋

       新幹線の駅が近くになく、誰にも知られないところ。海のそばで温暖ならもっといい。都内で定年を迎えた冨山勝敏さん(72)は、岩手県陸前高田市にジャズ喫茶「h.イマジン」を開いた。仕事一筋だった人生の転換点、スピードや仕事の人間関係から逃れ「隠遁生活」にあこがれた ▼東日本大震災の津波で店を流され、隣の大船渡で再開した新店舗はジャズレコード、グランドピアノ、JBLスピーカなど寄付の品であふれかえる。大音響でチック・コリアの「リターン・トゥー・フォーエバー」を聴けてファンとしては幸せだ。ただ、客はほかにいない ▼再開当時、外国通信社も含め多くのメディアが復興の象徴のように伝えた。客の8割は震災ボランティアたち。ミニコンサートの場にもなった。だが、一杯500円のコーヒー代は地元被災者には重い負担である ▼冨山さんは、店を一時休業した。新聞に載る美談では済まない現実がある。津波以前の寂れたまちではだめだ。そう確信する。三陸が、海や山の「お宝」を生かし元気になる道を探る ▼ローカル鉄道は「お宝」となり得るのだろうか。地方の発展を支えた一方、乗客が減少し「空気を運ぶ」と揶揄されていた。鉄道ファンだけでなく、地元の人々は大船渡線陸前高田駅の復活を望むのか。「隠遁生活」にちょうどいい、なんて思われる復興であってはならない。(O)

    40. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(162) ハバロフスクまで(上)

       学生時代、旅立つ友人を横浜港に見送った。投げたテープが船に届かなかったものだ。南回りの航空便もあったが、当時の若者の洋行といえばシベリア鉄道経由が流行であった。五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」が彼らを鼓舞した ▼横浜からの定期客船はナホトカに着く。そこからシベリア鉄道の支線でハバロフスクに出て、ウラジオストク発のモスクワ行きに乗り換えた。こうした迂回を余儀なくされたのも、軍港ウラジオストクが外国人を寄せ付けない閉鎖都市だったからである ▼1991年のソ連崩壊で縛りが解かれたあとも、この極東ロシアの拠点は観光面では注目されなかった。それが昨年9月のAPEC開催を機ににぎわい始めている。成田からの航空便も開かれ、シベリア鉄道に乗るツアーがいま人気である ▼前置きが長くなったが、ハバロフスクまで一晩かけて寝台列車で行く3日間ツアーに参加した。毎回応募が多く、旅行会社も添乗員2人を投入して2班に分けるほどだ。ところが、いかんせん観光開発途上の街。ホテル事情など受け入れ態勢はまだ悪い ▼投宿のホテルは中国人でごったがえし、浴室の照明がつかなかったり、トイレの水が流れにくかったり散々。筆者の部屋は鍵(錠前)が壊れていた。添乗員さんにいうと「私のところもそうなの」。郷に入れば郷に従え。鉄道に乗る前から観念した。(F)

    41. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(161) 18段連続スイッチバック乗れず

       立山にすごい鉄道があると知ったのは、もう40年も前だろうか。鉄道雑誌に紹介されたその光景は圧巻。18段連続を含む全線で当時42段(現在は38段)ものスイッチバックが続く立山砂防工事専用軌道。 ▼急勾配をジグザク上るスイッチバック。県内では、箱根登山鉄道の大平台駅などが有名。かつては幹線鉄道でも数多くみられたが、路線改良などで解消されたところもすでに多かった。 ▼それがごっそり現役で残っている。「見てみたい。乗ってみたい」と誰もが思うところだが、砂防のための専用軌道で、営業運転をしているわけではない。簡単には乗れそうになく、断念したままだった。 ▼数年前「見学会があるらしい」と聞き、まとまった休みがとれる今年、万を持して申し込んだ。倍率は2~6倍。2度目に当選した。電車の切符、宿も予約。天気は上々、さあ出発と思った前夜、届いたはがきは「残念ながら中止」。 ▼半月前の豪雨で崩落が起きたとのこと。もともと、地盤がもろい立山カルデラで、土石流災害を防ぐための資材、人員輸送の専用軌道。見学会も荒天時は中止で、実施率は6~7割。 ▼会場近くの宿の主人は「当日中止の例もあるし、3回目にやっと乗れた人もいる」と慰めの言葉。また申し込もうと誓った。(a)

    42. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(160) 列車は走るか陸前高田 2013夏

       広大な更地が広がる。津波にのみ込まれたあの日から、何が変わったのか。岩手県のJR大船渡線陸前高田駅。がれきは消え雑草が勢いよく伸びる。「この先、踏切です」。2年前の訪問時と同じメッセージがカーナビから流れた。そこには野原があるだけ。鉄路復活の気配はない ▼流された自宅跡地を見回りにきた老人は、大量の土砂で一帯をかさ上げする計画を教えてくれた。計画が完了し線路が敷かれるまで、どれほどの時間が必要か。不通区間の大船渡線気仙沼-盛(さかり)間に、ディーゼル列車は再び走るのだろうか ▼津波被害を免れた終着駅・盛はいま、レールのない鉄道駅となった。線路はアスファルト舗装の道路に姿を変えた。代替手段のバス高速輸送(BRT)の拠点である。待合室には通学の高校生らのにぎわいも戻ってきた。だが、鉄道駅の主役であるディーゼル列車はいない ▼大船渡の港近くでは復興屋台村がネオンを輝かせる。被災したすし店、居酒屋、ラーメン店などが肩を寄せ合う。方言が飛び交う屋台村を一歩出ると、海まで更地が続いていた ▼地元の商店主は復興とは、と問い掛ける。津波以前に時間を巻き戻せばシャッター通り商店街、高齢化のまちが戻るだけ。どん底、ゼロからのスタートは手探りのようだ。(O)

    43. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(159) サンインセン

       参院選の投開票日は、日付をまたいで午前2時半まで開票所にいた。選挙となれば新聞社は総掛かりなのだ。でも、サンインセンと聞くと、どうしても「山陰線」を先に思い浮かべてしまう。不真面目な記者め、などと言わないでほしい。私は記者生活よりも「汽車」生活の方が3倍ぐらい長い ▼京都―幡生間673・8キロ。700キロ以上あった東北線が、新幹線延伸に伴って一部区間を第三セクターに移管して以来、国内で最長の路線である。兵庫県の北部あたりからは、ずっと日本海沿いを走る。ほとんどの区間は単線で、かつて故・宮脇俊三さんは「偉大なるローカル線」と呼んだ ▼高校生のとき以来、何度も訪れている。車窓から見える海は今の季節、青というより緑に近くて、澄明な水が浜や岩場を洗っている。浜は、東京湾で見慣れた黒っぽい砂とは違ってクリーム色。初めて乗ったときは、こんなにきれいな海があるのか、と驚いた ▼その山陰に新幹線建設の話が持ち上がっているという。サンインセンで大勝した自民党幹事長(しかも鉄道好き)のお膝元だから、さもありなんだ。早く便利に移動したい欲求は分かるし、要不要を断ずる了見もないけれど、あの白砂青松の車窓を思うと、類のない財産が既にあるのにな、とも思う。(さ)

    44. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(158) みちのくおひとり旅(下)

       団体客で満員だった久慈駅発、田野畑駅行きの三陸鉄道北リアス線3両編成が終点手前の普代駅に停車した途端、団体の皆様がどどどーっと降車した。あんなに込み合っていたのに、車両に残されたのは筆者1人だった。そこから「みちのくおひとり旅」が始まったのである ▼現在、田野畑~小本間は東日本大震災の被害により運転を見合わせている。不通区間は代行バスが運行されている。田野畑駅前から乗車したのは、またもや1人きりだった。走り始めたバスは、緑豊かな山の中を上っていく。被災地の海沿いを迂回(うかい)して行くのだから当然であるのだが ▼小本駅前に到着した際、運転手に口ごもりつつ「お世話になりました」と言い、料金箱に硬貨を入れた。これも一期一会であろう。運転手はコクリとうなずいた。さて、閑散とした駅前には「小本観光センター」なる古びたビルがあった。「こりゃ何だ?」と驚いた。1階には待合室とコンビニおよび三陸鉄道の乗車券販売窓口がある。事務室に退屈そうな顔をした女性職員がいる。2階には集会所のようなスペースがあり、ホームに通じているのだ。それにしても寂れている ▼次の宮古行きまでの1時間余りを待合室でぼんやりテレビを見ながら過ごした。駅周辺を歩いたみたところで何もなさそうだ。もう、どうにでもなれ! 時折、近所の住人がやって来て食料品などを買い、職員の女性と話し込んでいく。ようやく発車時刻になったが、またまた乗客は1人だった ▼宮古駅まではトンネルが実に多い。津波の被害が甚大だった田老地区を通過する。津波は「日本の万里の長城」と呼ばれた巨大な防潮堤を越え、町を襲った。沿岸の市街地はすっかり平らになっていた。心の中で手を合わせた。ワンマンカーの乗客は終点まで1人のままだった。(N)

    45. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(157) あこがれの天賞堂

       原鉄道模型博物館がオープンして1年。ということで、のぞいてみることにした。といっても、原信太郎さんのコレクションについては、ここで書くまでのこともなく、ご存じだろう。行きたかったのは、ミュージアムショップである天賞堂横浜みなとみらい店だ。 ▼天賞堂といえば、言わずと知れた鉄道模型の最高峰(と私は思っている)。かつてあこがれたが、小中学生の小遣いでは手も足も出なかった。もともとは銀座の宝飾店だが、横浜駅西口ダイヤモンド地下街の店舗には、鉄道模型も展示されていた。 ▼その模型がいつの間にか見えなくなった。と思ったらできていたのが、みなとみらい店。鉄道模型の主流がNゲージに変わった今、どうなっているのか、ドキドキしながら訪ねてみた。 ▼いやはや参った。いや降参します。確かにNゲージやZゲージの商品もあるが、ど真ん中にはHOゲージの機関車や電車がドーンと並んでいた。真ちゅうで手作りされた高級品の蒸気機関車はまさに職人技。 ▼価格の方も、蒸気機関車1両だけで2けた万円にもなる。店員さんに「子供のころに買った小さな機関車が家にある」と話したら、「手入れしたら動くかもしれませんよ。昔のものは意外に丈夫なんです」。 ▼「どうですか、もう一度始めてみたら」。その言葉にクラッときたものの、値札を見、家のスペースを思い浮かべたら返事は自明。あこがれの天賞堂の壁は、子供時代と変わらず手強かった。(a)

    46. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(156) 大泉学園から横浜直通

       古里は西武池袋線の大泉学園である。黄色い電車と沿線に咲く菜の花が小学生のころ、スケッチの定番だった。キャベツ畑の広がるのどかな路線で、東急線や小田急線に少し引け目を感じていた。西武秩父行きの特急レッドアローが登場したときは、これで首都圏の私鉄として存在が認められると誇らしかった▼せんだって、親兄弟の暮らす古里を訪れた帰り道、駅の電光掲示板に、行き先「元町・中華街」の表示を見つけた。真夏の暑さの下、まぼろしを見たような感覚だ。今春のダイヤ改正で東京メトロ線、東急東横線と直通運転になったのを失念していた▼いまや横浜まで乗り換えなし。都民の間でかつては、「東京23区プラス1」と揶揄された大いなる田舎・練馬区を貫くローカル私鉄は、ついにメジャーの一角に進出を果たしたのだ。あと5分待てば電車は到着する▼その直通電車には乗らなかった。直通とはいえ長時間、座りっぱなしはたまらない。ロングシートは長距離に向かない。実利より、「つながっている」気持ちのほうに意味がある▼池袋からの湘南新宿ラインを選んだ。750円を足してグリーン車にした。静寂、清涼のリクライニングシートから新宿や渋谷の雑踏を見下ろし約40分。ぜいたくな癒やしの時間だった。(O)

    47. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(155) とんだ?イスタンブール

       トルコでデモ騒ぎが起きたころ、ちょうどイスタンブールにいた。新市街のイスティクラル通りを歩いていたら、観光客がこっちに逃げてくる。通りの向こうが不穏だ。「催涙ガスを吸ったら大変」と女性のガイドさんがUターンを命じた ▼東京を上回る人口1500万人都市。最初に驚いたのはホテル事情である。トイレの水量が乏しいので、できるだけペーパーを流すなという。それはいかにも困る。そして交通渋滞もひどい。目指すホテルを目前にツアーバスは遅々として進まなかった ▼「イスタンブールなのだから仕方ない」と市民も慣れっこというが、五輪誘致を東京などと争いながら、こんなことでいいのか。ガイドさんがあっさり言った。「当選するなんて誰も思っていないかも」。そういえば誘致宣伝の看板も見かけない ▼路面電車はひんぱんに動くが、大都市の割に鉄道網は張り巡らされていない。それでも、1875年、世界一短いながら、ロンドンに次ぐ世界2番目の地下鉄がつくられた。そのテュネル(写真)に乗りながら彼女は「その気になればトルコも日本並みの鉄道王国になれたはずよ」 ▼五輪誘致には不利でも「もっと大切なものがあるから現政権に抗議しているの」。イスラム圏ながら建国以来の世俗主義の自由は守る。なるほど老練にして若々しい。なかなかの歴史都市である。(F)

    48. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(154) みちのくおひとり旅(中)

       団体客で満員の久慈駅発、田野畑駅行きの三陸鉄道北リアス線3両編成はトコトコ走るのだ。ヘルメット姿の、いかにも「現場ですっ」という男性職員氏が、「ここが『あまちゃん』の主題歌が流れる最初の所で写っている橋ですよー」などと説明してくれる。「あー」と嘆声を発する中高年ご婦人たち。「あんた、よく聞こえないから、こっちでしゃべってよ」なんて声も。怖い ▼東京に向かう主人公・天野アキを祖母・夏が大漁旗を振って見送った、景色のいい海岸では最徐行のサービスもあった。なお、お上のお達しにより、完全な停車は不可なのだそうだ ▼だが、やはり話題は3・11に触れざるを得ないのである。無線が使えなくなり、運転士の判断に任せざるを得なくなったが、幸い津波に線路が流された個所の手前で電車が停止したため、人的被害は免れたという。強じんな線路が、継ぎ目ではなく途中からぽっきりと折れて流されたという話だ ▼アキの住まいである袖が浜の最寄り駅として登場する堀内(ほりない)駅に停車した。見晴らしがすばらしい。その後、異変は起きたのだった。津波被害で先が途絶している田野畑駅を前にした普代駅に停車した際、団体の皆様がどどどーっと降車なされたのである。同駅前で待機しているバスに乗り、次の見学地に向かうらしい ▼ぽっつーん…。残されたのは、恐るべきことに車両にわれ1人でありました。ここから「みちのくおひとり旅」が始まったのであります。じぇじぇ。(N)

    49. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(153) 三重のナローゲージ(下)

       三重県北部のもう一つの「ナローゲージ」は、三岐(さんぎ)鉄道北勢線。近鉄やJR関西線の桑名駅に隣接する西桑名駅といなべ市の阿下喜駅20・4キロを結ぶ。 ▼内部(うつべ)・八王子線と同じ近鉄の路線だったが、赤字が膨らんで2000年に近鉄が廃線を表明し、危機に。2003年、周辺自治体が10年分の運営資金など55億円を拠出、三岐鉄道が運行を引き継いだ。 ▼この資金を使って駅舎改築や線路を改良、所用時間も短縮し、一部電車には冷房設備も入った。軌道幅にちなんだ長さ762ミリの切符も発売、沿線のハイキングを企画、イベント電車も走らせた。 ▼これら努力もあり、乗客もじわり増加、年間7億円を超していた赤字が半減したという。期限の10年は過ぎたが、地元との協議でさらに3年間、6億円の支援も決まり、一息ついた。 ▼4両編成の黄色い電車は、ガタガタと音を立てながら、ゆっくりと上っていく。途中には、近代土木遺産に選ばれた「めがね橋」「ねじり橋」もあり、線路脇にはカメラを構えたファンも並ぶ。 ▼地元の努力による経営の好転は、内部線より一歩進んでいる。とはいえ、赤字は少なくない。貴重なナローゲージ鉄道、なんとか残したいというファンは全国にいるだろう。遠くからでも応援できる枠組みがあってもいいと思う。(a)

    50. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(152) 忘れないでね倶知安

       函館本線倶知安(くっちゃん)駅と再会したのはほぼ40年ぶりだろう。線路をまたぐ幹線道路から遠目に見えた。こんなに小さかったかな。ローカル駅のひなびたたたずまいに、少し驚いた。かつて蒸気機関車ファンを魅了した人気駅の姿は、北海道の鉄道衰退を象徴する ▼熱烈ファンだったわたしも、いまやレンタカーを愛用している。高校生のころ、夜の倶知安を発車するC62重連・急行ニセコを撮影した。氷点下、雪景色、懸命にシャッターを押した。おやじになって車で通過した駅。久しぶりに会った田舎のおばあちゃんが小さく見えたあの感覚と同じか。随分と時間がたった ▼車を止めずに先を急いだ。早く温泉につかりたくて倶知安を振り切った。冷たい人、と言われてもいい。おやじはいま温泉を愛している。駅南西の山塊ニセコアンヌプリ周辺は国内有数の温泉地帯である ▼頂上をのぞむ標高750メートルの山腹に、五色温泉が魅惑的な〝表情〟で待っていた。硫黄臭のある野天風呂、6月なのに残雪は1メートルを超えた。ダケカンバの新緑、雪、初夏の日差しと白濁の湯、さまざまな季節と色彩があった ▼近くにある秘湯の野天風呂で悔いた。なぜ倶知安を振り切ったのか。「わたしを忘れないでね」。森の中から倶知安の声が聞こえたような気がした。(O) 

    51. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(151) 投げるなよ、タブレット

       タブレットと聞けば、いまだにあの「輪っか」を思い浮かべる。信号が自動化される前の単線鉄道で、正面衝突を防ぐために運行中の列車が持った通行票のことだ。紀行作家の故・宮脇俊三さんは「独占通行手形」と称した ▼輪っかは肩に掛けられるほどの大きさで、革製。一端のポケットに砲金製の円盤が収められている。円盤の形は区間によって異なり、これを数駅ごとに交換しながら列車は進んでいく ▼通過駅ではスリル満点のシーンが展開した。運転士がタブレットを放り投げ、新しいのを引っつかむのだ。ホーム上には、楽譜の四分休符を逆さにしたような「受け器」があって、引っかかった輪っかがクルクル回っていた ▼英単語「tablet」には銘板、錠剤といった多様な意味があるらしい。ミント味の清涼菓子を思い浮かべる人もあろうが、今や携帯端末のイメージが定着した ▼ダイヤ乱れ時の情報伝達手段として、JR東日本は全ての乗務員に端末を持たせるという。「おい、次の駅でタブレットを投げろ」と先輩運転士に言われた新人が、ピカピカのiPadを放り投げやしないか―。そんな心配をしかけたが、杞憂(きゆう)だった。もうそんな駅はない。埼玉・八高線で「通過授受」に心躍らせたのは20年も前のことだ。(さ)

    52. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(150) みちのくおひとり旅(上)

       ミーハーと笑わば笑え。しかし、三陸鉄道北リアス線の旅は、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が始まる以前から計画していたのだ。などと書きながら、久慈駅からバスに乗り、劇中「袖ケ浜」の名で舞台になっている小袖海岸まで行ってしまったもんね。まめぶ汁も食べたもんね。悪いか。「なーんも悪ぐね」 ▼ドラマ特需がどれほどのものか興味があったというのが理由(言い訳)です。が、週末はマイカー規制が行われているためか、袖ケ浜の人出は大したことがなかった。地元がはしゃぐほどでもないか―。そう軽く思ったのが、間違いの元凶だったのである ▼午後0時36分に久慈駅を出発する田野畑行きの北リアス線は、お座敷列車(指定席)1両と内装の凝ったレトロ車両(自由席)2両の3両編成。狭い駅はごった返していた。団体客ご一行さまのおかげだ。駅員の仕切りの悪さが混乱に拍車を掛ける。こんな活況に慣れていないから無理もないだろうが。大半は中高年のご婦人。自由席の席取りバトルがどう展開されるか、ご想像の通りなのだ。じぇ! ▼「○○さん、こっち取ったわよ」「あーら私もこっち取ったのに」。ダブって確保するなっちゅうに。筆者が座っていた4人掛けテーブル付きの席に3人がなだれ込んできた。じぇじぇ!▼かくして電車は出発した。この惨状が一転し、山本譲二の歌う「みちのくひとり旅」ならぬ「おひとり旅」になるとは、思ってもみない筆者であった。じぇじぇじぇ!(N)

    53. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(149) 三重のナローゲージ(上)

       大型連休を利用して、三重県北部の小さな鉄道を訪ねた。近鉄の内部(うつべ)・八王子線と三岐(さんぎ)鉄道北勢線。いずれも線路幅が狭い「ナローゲージ」。かつてこのような軽便鉄道は全国にあったが、現在営業運転をしているのはほとんどない。そのうちの2路線がここにある。 ▼まず乗ってみたのは内部・八王子線。「しまかぜ」などの人気特急列車も往来する高架の近鉄四日市駅。その下に取り残されたように島式のホームがある。列車の多くは3両編成。ピンク、黄色、緑色などパステルカラーがかわいらしい。 ▼明らかに車両の幅が狭い。足の長い人なら、ロングシートに座ると、向かいに座った人の膝に触りそう。クロスシートの車両もあるが、座席は一人掛けで路線バスのよう。老朽化し、冷房もない。 ▼内部線は内部までの5・7キロを17分で結ぶ。八王子線は日永(ひなが)で分かれ、西日野まで1・3キロ伸びる。田園地帯をのどかに走る単線電車だが、経営はのどかでない。近鉄によると、旅客はピーク時から半減し、年間赤字額は3億円弱。BRT(バス高速輸送システム)化を提案した。 ▼「決断期限はことし夏」という近鉄。地元自治体や議会では存続を求める議論が続く。各駅には「乗って残そう内部・八王子線」の「のぼり」がはためく。1912(大正元)年の開業から百年超。廃線にするのは惜しい、が妙案は見つかっていない。(a)

    54. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(148) 福島の日常(4)

       春の福島を旅した。同行は現代詩人・故田村隆一の名著「インド酔夢行」(日本交通公社)。道中ひたすら酒を飲み、インドを的確な表現で切り取った紀行文である。40年前の作品で本棚の奥に眠っていたのを引っ張り出した。形だけでも田村の域にと、東京・駅ナカの専門店で日本酒をごっそり仕入れた ▼山形の「上喜元」、三重の「作」、缶ビールはロング…。つまみは「厚岸かきめし弁当」「ミニ石狩いくら蟹」の2種類。新幹線の座席の小さなテーブルがいっぱいになった。通路向かいの乗客は、壮観な酒瓶を気にしているが、わたしと目を合わせようとはしない ▼福島まで1時間半、できあがった。乗り継いだバスから、各種サクラ、モモの花が咲き競う光景を見た。福島の春は美しい。夏も秋も冬もそうだろう。赤ら顔で酒臭い身ながら、豊かなこの地を襲った不幸を思った。観光客は原発事故前の7割ぐらいまで戻ったか。運転手が言った ▼駅前の繁華街にあるなじみのラーメン屋を震災後初めて訪れた。60歳を過ぎたおやじは、揺れの瞬間をきのうのことのように話した。スープ鍋が落ちないように押さえやけどしたという。震災はまだ過去になっていない▼福島の旅で身に染みたのは、田村の名文は酒の力ではないという事実だった。「酔夢」に挑戦しても凡庸な表現しかできない。「酔も甘いもかみ分けた」コラムを書きたい。(O)

    55. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(147) ぐるり台湾

       列車で巡るというので台湾一周ツアーに参加した。日本の新幹線そっくりの高速鉄道で南下し、高雄から在来線で東海岸側に出て北上する。「日本統治時代のインフラ整備が今日の成長につながった」とガイドさん。鉄道もその一つだ ▼高雄8・45発の自強号(写真)。枋寮から山越えする南廻線は単線非電化。椰子林や養殖池の続くそれまでの光景が一変、標高を上げながら荒涼とした山間に分け入る。車内販売がきたが「酒はない」という。やがて太平洋を一望する感激の傍らに缶ビールもないとは! ▼その昔軽便線だった台東線はローカル色が濃い。案山子の立つ青々とした田んぼにシラサギ。人家の見当たらない里にも律義に駅があるのがいい。付け替えの新線らしい工事がよく目に入るが、それが必ずしも急務とは思えない車窓風景である ▼花蓮で1泊し、翌朝は9・05発の樹林行き自強号。北廻線は全線複線電化を果たし、昨日たどった在来各線とは様相が異なる。旧線とおぼしき橋梁跡などが窓辺をよぎる。日本の台湾経営の面影は消えつつあるのだろう。列車も速い ▼前日の不首尾に懲り、花蓮駅の売店で缶ビール(35元)を買い込んだ。ところが、ついでに求めたピーナッツ(1袋25元)が激辛。くせになりそうだが、舌がしびれる。「麻辣花生」とある。ハーハー。これも旅の味なのだろう。 (F)

    56. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(146) 二つのドラマ

       手元に関東の駅百選の写真集「駅の旅物語」がある。1都7県の2100余りの鉄道駅から、地域を代表する駅、歴史を物語る駅、デザインや景観が優れた個性的な駅、バリアフリーの工夫を凝らした駅などを選定した ▼神奈川県内から選ばれたのは25駅。横浜、桜木町など外せないターミナル駅も入っているが、個人的に好きなのは思い出のある小さな駅である。京急線・神奈川駅は、子どものころ、園芸店に行く父に連れられ乗り降りした。駅舎は新しくなったが、何となく東海道・神奈川宿の雰囲気を醸す造りは好感が持てる ▼最も思い入れがあるのは江ノ電・極楽寺駅である。同駅と周辺を舞台に撮影された新旧二つのテレビドラマのファンだった。古い方は1976年から翌年にかけ、日本テレビ系で放送された「俺たちの朝」である。主演は勝野洋。小倉一郎、秋野太作、長谷直美らが共演した ▼駅名の看板をはじめ、現在の駅舎は当時のたたずまいを残す。大学生だった筆者は若者たちの梁山泊的な共同生活にあこがれ、のこのこ同駅まで出掛けて行った。同じような能天気な者は多いらしく、江ノ電の乗降客が増えたとか ▼新しい方は昨年、フジテレビ系で放映された「最後から二番目の恋」。主演は小泉今日子と中井貴一。コメディータッチの大人の恋愛劇で、駅で顔を合わせる2人のやり取りが大いに笑えた。おかげで「俺たちの朝」と学生時代の思い出が懐かしくよみがえった。だから、この駅が好きである。(N)

    57. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(145) 時刻表の旅

       久しぶりに時刻表を買ってしまった。特に出掛ける予定もないのに。交通新聞社の「JR時刻表」4月号。50周年、600号という名前につい引かれてしまった。歴史ではJTB時刻表にかなわないが、内容では甲乙つけがたい ▼子供のころ、時刻表は友達だった。自分一人ではなかなか旅行できない。でも、時刻表を眺めれば、それだけで何時間も旅が楽しめた。大きなダイヤ改正があると、小遣いを貯めて買いに走った。「同じものを何冊も」親に言われた ▼「午後10時24分、横浜駅から東海道線で寝台特急「サンライズ出雲」に乗ると、山陰線出雲市駅到着は翌朝の9時58分。朝食は駅前で食堂でも探して…」。ページをめくれば、私鉄やバス、ホテル、旅館の情報、名物駅弁の値段も出ている。頭の中で旅行は続く ▼今号には、50年前の鉄道路線図もついている。1963年5月。まだ新幹線はない。一方で北海道には今はなきローカル線の数々が。池北線、天北線、羽幌線。私鉄では三菱大夕張鉄道、寿都鉄道も。行きたかった、でも行けなかった ▼大人になれば、お金も時間もできて、どこへでも行けるようになると思った。でも気がつけば、また「脳内旅行」。大型連休が始まった。ことしこそ、現地へ出掛けてみようか。(a)

    58. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(144) 北母子里駅の捕虫網

       小学校の先生に「一番寒いところ」と教わった地名が頭に残っていて、18年前の7月、それだけの理由で途中下車した。今はなき北海道・深名線に北母子里(きたもしり)という小さな駅があった ▼廃線を2カ月後に控え、車内は鉄道ファンで混んでいた。その時はそう思ったが、東急東横線・渋谷駅の高架駅が廃止された先日の大騒ぎを思うと、どうってことなかったのかもしれない。そういえば、数両の編成には空席もあった ▼北母子里の駅舎は交番ほどの掘っ立て小屋で、もちろん駅員などおらず、駅前の建物といえば確か簡易郵便局ともう1軒しかなかった。あとは草むらだった ▼同じ列車から下車した人がもう一人いた。背丈ほどの捕虫網を携えていたのでよく覚えている。鉄道など意に介さず、駅前の一本道を歩いてどこかへ行ってしまった。ちょっとした「お別れ乗車ブーム」の熱気さえあったので、交通機関としてまっとうに乗る人もいるのかと感心した。そして、よくも好きこのんでこんな人里離れた場所に…と共感もした ▼深名線は同じ年の3月にも訪ねた。雪が積もっていて車窓は真っ白だった。1978年にマイナス41・2度を記録した「日本最寒地」の証明書を、母子里でもらえると最近聞いた。線路がなくなった今、行く機会があるだろうか。(さ)

    59. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(143) 海を見ていた午後

       〈山手のドルフィンは/静かなレストラン〉。松任谷由実が旧姓荒井時代の1974年にリリースしたアルバム「MISSLIM」収録の「海を見ていた午後」は印象的な曲だった ▼ユーミンファンのドルフィン詣でが始まった。根岸線・根岸駅から根岸森林公園に続く坂を上り、くだんのレストランへ。見晴らしのいい店内から、歌詞にあるように〈晴れた午後には/遠く三浦岬が見える〉のか、〈ソーダ水の中を/貨物船がとおる〉のか、検証したものだった ▼JX日鉱日石エネルギーという長い会社名になったが、要するに根岸製油所から石油製品を出荷するタンク車が「ソーダの中を通った貨物線」だったのである。今も根岸駅ホームからは上部を明るいグリーン、下部をグレーのツートーンカラーに塗られた「タキ1000形」が集結している様子が眺められる ▼東日本大震災により同駅から東北向けの出荷が一時止まったが、7日後には日本海側を北上するルートで盛岡まで石油製品が運搬されたことは記憶に新しい。2週間後には磐越西線を使い郡山まで送り届け、被災地のエネルギーを支えた。鉄道マンの心意気を感じた ▼関内駅で根岸線を待っていると、重低音が近づいてくる。電気機関車に引かれたタンク車である。ゆっくりと駅を通過する際、その大きさを再認識させられる。日本の高度経済成長をもたらしたのは、この頼もしい量感を持った大動脈だった。(N)

    60. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(142) 滑る北海道

       この季節は、滑るという言葉が身近になる。第1志望だった札幌の大学を滑ってから40年近くがたつ。駅から近い受験場までの道、何度も滑って転んだ。試験前日に大倉山のジャンプ大会を見に行ったのだから結果は予想できた ▼真冬の北海道を走る鉄道に惚れ、住みたくなった。それが受験のきっかけ。鉄道ファンだった高校生の夢は叶わぬまま。白髪が増えてから温泉巡りで訪れる。久しぶりの釧網本線・浜小清水には、白い雪面にレールが延びる冬の鉄路があった ▼荒波のオホーツク海、流氷が海岸に迫る。この路線は網走から釧路川など数々の絶景を望み釧路に至る。いまあることは奇跡だろう。思い出深い湧紋線、名寄線、標津線、池北線は廃線の憂き目に遭った ▼釧網本線の列車にお目にかかるのはまれ。車の天下である。ためらいながらも移動には車を選んだ。道はスケートリンクのように凍っている。下り坂でブレーキを作動させれば、運転手の意思と関係なく滑りに滑る。それが踏切の手前なら想像通りの恐怖が襲う ▼鉄道から足を洗ったのに鉄道コラムを書く。文章が滑るのはつらい。覚えが悪く、長い時間、鍛錬と反省を繰りしても進歩はわずか。拙文で悪いかと開き直る。滑ってこその人生さ、なんて言えたらいい。(O)

    61. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(141) 深夜の富士を見た

       夜ふけの横浜駅6番線。なお混雑のやまない熱海行きが出て行った3分後。22時24分発の寝台特急「サンライズ瀬戸」に乗る。帰郷先は高松である。新幹線でもよかったが、同行する妻が「寝台車ってどんなかしら」というものだから夜行を選んだ ▼昔は急行「瀬戸」にも乗った。ホームに入ってくる機関車の光に胸が高鳴ったものだ。あれから幾歳月。機関車牽引の寝台列車が相次いで西に向かった、あの6番線の格式はもうない。「サンライズ出雲」を併結した電車特急14両の旅装が帰宅の人波の中で場違いのようでもある ▼個室寝台はシングルツイン。1号車11番。上下に寝床がしつらえてある。妻は中に入った途端、「狭っ」と言った。そりゃ大人2人がいちどきに入り口に立てば窮屈に違いない。だが、それは不当な評価というものだ。昔の三段式などに比べれば贅沢なものだ ▼それでも上段の寝台に上がってみれば、天井にも届く窓が気に入ったらしい。個室が進行方向右側だったので、初めて深夜の富士山を拝むこともできた。冠雪と末広がりの輪郭がしとやかに浮き出て、ふもとの家々の灯火の点滅が夜会服の裾飾りのようだった。2人して見ほれた ▼話はこれでおしまいだが、下におまけ写真を添えた。高松琴平電鉄(琴電)に乗った折、わけあって車内で切符を買った。その券である。ハンディターミナルの時代に、車掌さんがハサミで行き先や日付など該当箇所をパチンパチン。いまどき懐かしい。(F)

    62. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(140) 時代を乗せて走る

       足尾の山に小さな「記念館」がある。わたらせ渓谷鉄道の終着駅、間藤の駅舎の片隅を利用した。国鉄全線を乗った故宮脇俊三さんの名著「時刻表2万キロ」(河出文庫)。その終着点が間藤だ。遺稿や雑誌企画が小学校の教室のように素朴に張ってある ▼公害の原点、古河鉱業精錬所が亜硫酸ガスを放った。荒涼とした山々が取り残された。まちは栄え、滅びてゆく。近代化の終焉を象徴する駅であろう。著書には続きがある。足尾線を最後に旅を休止した宮脇さん。昭和52年12月、気仙沼線開通でわく三陸の志津川駅に降りた。悲願80年の駅を町民が埋め尽くした。何百もの風船が放たれた ▼それから三十数年、3・11東日本大震災後の志津川駅をわたしは訪れた。いまだ、がれきの中だった。遠く望む青い海まで続く荒野で、重機が暮らしの残骸を片付けた ▼大津波を知り真っ先に思い出したのは三陸鉄道沿線の風景だ。入り組んだ地形の奥に小さな漁村が点在した。へき地という言葉がふさわしくない美しさを記憶している ▼岩手の田野畑村は三陸鉄道を大切にした。宮沢賢治の童話にちなむ駅名を付けた。高架駅も集落も流されたカルボナード・島越。駅名の由来を告げる賢治の詩碑は残った。鉄道は時代や人の記憶を乗せ走り続ける。(O)

    63. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(139) ふらり久留里線

       久留里線のことは気になっていた。気動車の小さな領国をけなげに守っている。褒めてあげたいが、盲腸線を訪ねる機会はなかなかないものだ。だが今年(2012年)は内房線とともに開業100周年。現役最後のキハ30も引退する。出掛けねばなるまい ▼木更津から乗ったのはキハ30100を含む2両編成だった。この車番100のキハ30は0番台のしんがりで、1966年の製造。記録によると、亀山、伊勢、八王子と転属を重ね、86年茅ケ崎に配属。相模線電化の91年に木更津へ転出した。あの外吊りドア。懐かしい ▼「お乗りの方は押して」と表示のある開閉ボタンも残るが、もう使われないままに黒ずんで歴戦の古傷のよう(写真)。スイカに対応しない線区のため、車掌のほか検札の乗務員がしばらく同乗した。晩秋であった。土手のススキが輝き、小櫃川の美しい蛇行も垣間見えた ▼終点の上総亀山。線路は名残惜しげに車止めに至る(写真)。言い交わした仲の、その名も木原線(現いすみ鉄道)とはついに結ばれなかった。商店の縁台にお年寄りたちが所在なげに腰掛けている。お天気も上々。あいさつしたら「いい写真撮れたかね」と笑顔が返ってきた ▼久留里線に3両きりだった生き残りのキハ30は12月1日、その一族とともに任を終えた。譲渡先に向けて機関車に引かれていった。(F)

    64. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(138) 塩釜で浦霞に会う

       塩釜水産物仲卸市場。魅力的な名前を観光地図で見つけた。仙台の改札、予約した新幹線は4時間先だ。小さな旅にちょうどいい。東北本線の鈍行に乗り20分弱で塩釜に着いた。駅前でタクシーを拾った ▼マグロ、エビ、カキ、想像するだけで唾液が出た。海に近づくとあちこちに更地があった。このへんはやられちゃってね。わたしの視線を察した運転手が話しかけた。大津波の被災地だった。黒い濁流が押し寄せ市民47人が犠牲となった ▼不思議なんだよね、と運転手が言葉を継いだ。市中心部にある仙石線の本塩釜周辺は津波に洗われたが、海に近い仲卸市場と運転手のタクシー会社は被害がなかった。海底地形の違いが明暗を分けたのか。そう思うと唾液が止まった。たった1年半なのに記憶が風化した自分の不徳を悔いた ▼大津波から3カ月の三陸の光景がよみがえった。流された家の跡地に立ち思い出の品々を探す家族連れ、その隣では難を逃れた家族が洗濯物を干す日常の光景があった ▼塩釜で被害に遭った仲卸業者はプレハブの復興市場で再生を期していた。津波に洗われた一角に浦霞の酒蔵があった。関内の夜、仕事の辛さを癒してくれた親友だ。ここが故郷。軽微な被害ですぐ再生した。親友がさらにいとおしく思えた。(O)

    65. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(137) シドニーのモノレール

       ツアーで海外に出ると、先々でやはり鉄道が気になる。シドニーではどういうわけかモノレールにひかれた。それが「遊園地感覚」と聞いたからだ ▼ビルの谷間を走る。街の人々の頭上をゆく。全線高架。並木の枝葉をかすめて道路を渡ったりする。跨座式の列車は身をくねらせ、オフィスの窓辺に沿うかと思えば、そのまま建物の中に立ち寄ったりもする。自在な立ち回りである ▼メトロ・モノレールという。環状(といって円形ではない)の路線を持ち、港と繁華街、観光スポットを結ぶ。全8駅3・6キロをおよそ13分かけて一周する。なぜか一方通行。反時計の左回りである。いくら回っても料金は5ドル。豪州らしくない規模だ ▼開業は1988年。フィリップ提督のシドニー入植200周年記念の年だった。期待されたカジノが沿線にできなかったため当初、客足は伸び悩んだという話がある。いまはどうなのか ▼さて臨港地区のダーリングパーク駅から乗ってみた。5分おきくらいに次々やってくる。車両も赤や青の編成があってカラフルだ。車内は案外狭く、観覧車のような向かい合わせの座席。これって、うっかり乗り過ごしたら、もう一周するしかないと気づいた。とはいえ騒ぐほどのこともない。なるほど「ご用とお急ぎでない方はゆっくりと乗っておいで」なのだ。(F)

    66. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(136) 路面電車と地下鉄

       恥ずかしながら、初めて四国を訪れた。一人ならバスツアーなど選ぶはずもなかったが、同行者があり、諸般の事情で急ぎ旅になってしまった。しかしながら松山、高知両市では路面電車の姿に接し、大いに感慨深いものがあった ▼高知市内で土佐電気鉄道とバスが平行して走行することがあり、バス車内は大いに盛り上がった。松山市の道後温泉でひと風呂浴びた後、浴衣で散歩を楽しんだ。土産物を並べた商店街を抜けると、伊予鉄道・道後温泉駅に出る。夕暮れどき、クラシックな造りの駅舎に路面電車の走行音が響くのは、どこか郷愁を誘うものがある ▼駅の一角に、復元された「坊ちゃん列車」が展示されていた。かわいい蒸気機関車(復元車の動力はディーゼル)である。観光用で料金が高い上に、客車が狭く「護送車みたい」というので、市民は乗らないそうだ ▼地下鉄化の流れに遅れ、地方都市に残った路面電車は、しっかりと地域に根を張っている印象だ。日本は今後も目覚ましい経済発展は望めそうにない。路面電車は速くはないが、安くて便利な「身の丈に合った」交通機関として役目を果たしていくことだろう ▼明治学院大学教授の原武史さんは「『鉄学』概論」(新潮文庫)で、都電の廃止と地下鉄の発達の問題点を指摘した。例えば地下鉄「半蔵門」駅で、駅名と半蔵門の風景が一致しない乗客が増えることで、人々の東京に対する認識が変化したとする。そういえば横浜市営地下鉄の「伊勢佐木長者町」という足し算で生まれた妙な駅名に違和感を覚える市民が少なくなったような気もするが…。(N)

    67. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(135) 足尾線は残った

       旧国鉄足尾線に乗ったのは30年ぶりだ。桐生から間藤まで、渡良瀬川沿いをくねくねと行く。かつて小ぶりの蒸気機関車C12が貨物列車を引いた。足尾町にある古河鉱業までトンネルや鉄橋を越えた。廃止の危機にあった赤字ローカル線は、わたらせ渓谷鉄道に生まれ変わった。鉄路は生き残った ▼夏の日曜日、2両編成の列車は家族連れや団体客でにぎわう。渓谷や山々を間近に感じられる開放感あふれるトロッコ列車も走る。晴れ時々雨という山の自然を体感できる観光路線である ▼国鉄時代の30年前、足尾駅前は寂れていた。銅山で発展した足尾町(現日光市)は、精錬の衰退とともに過疎が進んだ。近代を支えた銅山は一方で深刻な公害を残した。周囲の山は精錬で発生する亜硫酸ガスで広範囲に裸地化した ▼人口の激減、公害の爪痕、鉄道廃止の危機。沿線は沈滞していた。難題を抱えた当時の足尾町長に会った。町長は「鉄道が廃止になれば、まちがなくなる。産業や公害の歴史さえ消えてしまう」と訴えた。裸地を逆手に「日本のグランドキャニオンとして人を呼ぶ」と。懸命だった ▼足尾の山ではいま、植樹による環境教育が進められる。週末の渓谷鉄道は癒やしを求める観光客の歓声が響く。鉄路は人の笑顔を運んでいく。(O)

    68. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(134) 宿毛は遠い

       宿毛旅行の予約をしようと、みどりの窓口に行ったら職員(特に駅名は秘す)が指定券の申し込み用紙を見て「なんて読むの」と聞いた。そう、土佐は遠国。そのはるけき地にあってなお宿毛は遠い。こちらの駅員が知らずとも文句は言えまい ▼学生のころ、四国一周を敢行した。土讃線はまだ土佐佐賀までしか達しておらず、閑散とした駅前から中村に向かうバスに乗ったものだ。1970年、ようよう中村まで線路が伸びた。国鉄民営化を経て宿毛延伸はかなわぬかに思えたが、土佐くろしお鉄道として1997年に悲願を果たした ▼中村行きの2000系南風号はアンパンマン列車だった。道理で子ども連れが目立つ。キャラクターシートの1号車9番D席。振り子式気動車に揺られ、高低差の激しい地形を縫う。白浜周辺で荒磯が眼下に見える。くろしお鉄道らしい風景はこの辺だけである ▼中村からは6分の接続。夏休みなので乗客は多め。1両の気動車に詰め込まれて30分。意外にすんなりと宿毛に着いてしまった(写真)。四国の西南端。あこがれの地に来たのに何もすることがない ▼その昔、四国循環鉄道の夢があった。ここからさらに予讃線の宇和島まで線路をつなぐ計画もあったのだ。漁師町を歩いて居酒屋に入った。タクシーの運転手に聞いた人気店S。お通しはタカトウという円錐形の貝。潮の香りをつまようじでほじる。酒が進んだ。(F)

    69. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(133) 暴走鼻眼鏡のもう片方(下)

       内田百閒著「第三阿房列車」収録の「房総鼻眼鏡」の旅をたどっている。外房線で大原に着いたところで、先生に倣(なら)って気まぐれを起こし、いすみ鉄道に乗り換えた ▼ご多分に漏れず、同線も赤字経営が続いて存廃問題に揺れた。ムーミンをあしらった列車の運行をはじめ、あの手この手のアイデア作戦が奏功し、存続が決定した経緯は、よく知られていることと思う。キャラクター列車が好まれているせいか、家族連れが目立つ ▼大原を出発し、田園風景の中を走る。次々に停車する無人の駅舎は掘っ立て小屋か、というのが率直な印象である。沿線は水田地帯といえそうだが、その里山に人の手が入り、よく整備されていて実に美しい。何カ所か川を渡るが、思いのほか川面から線路まで高さがあり、眺望を楽しめる。車窓風景がいすみ鉄道の財産かもしれない。気動車の揺れに身を任せながら、うっとりしてしまう ▼終点の上総中野に到着する。このホームも実にボロいのがほほ笑ましい。小湊鐵道に乗り継ぐ。旧態依然たるローカル線の雰囲気もまたよしである。女性車掌から切符を買う。養老渓谷でハイキングの帰り客がどっと乗り込んだ。沿線風景は開け、とりとめがなく、何となくもの悲しい ▼終点の五井到着。本来なら大原から外房線に乗り続け、大網を経て千葉に至り、房総鼻眼鏡が完成するはずだった。しかし、大原からショートカットしたため、鼻眼鏡の左半分はやや小さくなってしまった。所期のルートを外れたのは、「暴走鼻眼鏡」のタイトルに免じて許していただきたい。(N)

    70. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(132) 暴走鼻眼鏡のもう片方(中)

       内田百閒「第三阿房列車」収録の「房総鼻眼鏡」の旅をたどっている。先生は鴨川で天皇の行宮(宿泊所)になった立派な旅館に一泊。「例によって早くから始め」、「暗くなった太平洋を見る目がうろうろして来た」。何回も手洗いに立ち、同じ朝顔の前に立つのを、犬が同じ電信柱に小便をかけるのと同じかもしれない、などとノンキなことを書いている ▼こちらは安房鴨川駅前で「うろうろ」する。昔、家族旅行で訪れた際は、シーワールドに直行した記憶がある。駅周辺がこれほど閑散としていたとは意外だった。歩いて10分ほどの飲食店で海鮮丼を食べながらビールを飲んだ。つまらないので先を急ごうと思う ▼先生は鴨川から先の房総東線の旅をごく短く記すだけだ。「定時に発車して、太平洋の海波を堪能する程眺め、無数の隧道(ずいどう)を抜けて、段段夕方になり暗くなってから千葉に著いた」。房総西線と合わせれば、確かに鼻眼鏡は完成したけれど… ▼「阿房列車」シリーズは多分に竜頭蛇尾の傾向がある。旅を思い立ち、発車のベルが鳴るまでは誰でも高揚するものだ。それが醍醐味(だいごみ)といっても過言ではないが、先生の場合、往路に比べ、復路の描写は往々にして素っ気ない。「房総鼻眼鏡」では千葉到着後、稲毛に泊まる予定だったが、旅館の雰囲気の悪さに急に気が変わり、帰宅してしまう ▼外房線で大原に着いた。先生に倣(なら)い、気が変わった。いすみ鉄道に乗り換えだ。(N)

    71. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(131) 福島の日常(3)

       真夏の福島駅は暑すぎる。盆地の底で焼かれるようだ。この夏はさらに熱さが加わった。石炭を燃やし黒光りするあの鉄の塊、蒸気機関車が復活した。SLふくしま復興号が黒煙を上げて走り抜けた。80歳を過ぎた老機関士も、おじさん鉄道ファンも、子連れのお母さんも、子どもたちも、みんな汗をかきかき元気をもらった ▼東日本大震災の被災地を目的もなく訪れた7月最後の日曜日、偶然出会った。3番線に昼前、郡山からC61がけん引する5両編成の客車が到着した。こげ茶色の客車はスハフ42。乗客と機関士は沿線の人たちと互いに手を振り合った。元気だそうよ、と誓いながら ▼ホームで行われた記念式典、国鉄時代に蒸気機関車を操った機関士たちが昔の制服姿で整列した。白髪が目立つ。特産品のモモをイメージしたキャラクター「ももりん」の横で気恥ずかしそうだが、とてもりりしい ▼かつて磐越西線で貨物列車を引き30年前に引退した84歳の元機関士は、福島市内で家庭菜園を手入れしながら引退後の生活を送る。「蒸気機関車を見ると輝いちゃうんだよね」と少年のよう ▼放射線量はいまだ油断できないが、たくさんの笑顔が戻りつつある。白昼夢のように蒸気機関車が走る光景がみんなを元気にしたのかな。(O)

    72. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(130) KTX余聞

       外国の鉄道には血が騒がないと思ったが、そうでもなかった。韓国ツアーで慶州の良洞民俗村を訪れた際、丘の上から東海南部線のローカル列車が遠望でき、たちまち「わーい」。ガイドの説明そっちのけでカメラを向けた ▼ツアーでは東大邱からソウルまで高速鉄道(KTX)に乗った。驚いたのは改札口がなかったことだ。そのままホームに出、やってきた列車(写真)に乗ってしまった。西欧には信用乗車方式が定着しており、その代わり不正乗車への罰則は重い。韓国の場合は曲折もあったらしい ▼誤作動続きで自動改札のシステム化をあきらめたと聞く。考えてみれば車掌の持つ端末機で乗車管理できる時代。わざわざ複雑高度な装置を張り巡らせる必要などないのかもしれない。電算化の効用は機械減らしであって人減らしではない、と大いに納得する日本人乗客もいた。だが、実際のところはどうなのだろう ▼もう一つ驚いたのは、たまたまそうだったのかもしれないが、車内がひっそりとしていたことだ。KTX初体験を同行者と喜んでいたら、女性車掌に「静かに」と注意された。なるほど話し声があまりしない。韓国の乗客は格別な感興もなさそうに冷めている感じがした。意外だった ▼専用線と在来線を行ったり来たり。手帳のメモによると東大邱発14・12、ソウル着15・57。所要1時間45分であった。(F)

    73. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(129) 暴走鼻眼鏡のもう片方(上)

       内田百閒「第三阿房列車」収録の「房総鼻眼鏡」の旅を再びたどろうと思う。前回は3月。千葉を起点に総武本線で銚子まで、銚子電鉄で犬吠埼に足を延ばし、銚子に引き返して成田線で千葉に戻った。これで鼻眼鏡の片方が完成した ▼百閒先生が2日間かけた片目を特急も利用して1日で乗り倒したので「暴走鼻眼鏡」と名付けた。さて、もう片方の旅に出掛ける。やはり千葉を起点に内房線(当時は房総西線)で安房鴨川へ。同駅から外房線(同、房総東線)で千葉へ戻る予定だ ▼改良工事中の千葉駅で特急「新宿さざなみ号」に乗車。梅雨が明けていないが、始発・新宿からのレジャー客で7割程度の乗車率だ。進行方向右側に座れたが、なかなか海が見えない。と、木更津を過ぎ、君津駅のそばに見えたのが居酒屋「お富さん」の看板。ツボに入るとはこのことか、一人笑いをかみ殺す ▼歌舞伎の「与話情浮名横櫛」(よわなさけ うきなの よこぐし)の名せりふにある。「しがねぇ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのを どう取り留めてか 木更津から」。与三郎がお富を見初めたのが木更津海岸だった。この演目を下敷きにした歌謡曲「お富さん」は春日八郎が歌い、大ヒットした。居酒屋の店名とは付けも付けたり、などとウケているうちに浜金谷を通過。東京湾を挟み、横須賀が近い。猿島や火力発電所が指呼の間である。特急は館山止まり。各停に乗り換え、和田浦駅に鎮座したクジラの頭の骨などを見つつ、安房鴨川に着く。(N)

    74. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(128) インド国鉄の旅(2)

       インド東部カルカッタ(コルカタ)から南のプーリーへ夜行寝台列車で訪れた。ベンガル湾に面するプーリーは地元の人々のリゾート地で、ヒンズー教の聖地でもある。海岸近くの安宿で荷を解き、寺院観光もそこそこに安食堂を目指した ▼バックパッカー必携の「地球の歩き方」にサンタナレストランがあった。30年前の旅。当時、ロックミュージシャンのカルロス・サンタナは世界的人気があった。インドの片隅で生きる食堂店主から「サンタナ」の名をもらったとの逸話が記されていた ▼そのレストランは逸話の割には質素なたたずまい。サンタナおやじは店先に迷い込んだカメレオンと戯れていた。家庭料理を注文したが味の記憶はない。問題は水だった。田舎ゆえ、インド版清涼飲料カンパコーラはない。渇きに耐えられず、かめにためた生水を飲んでしまった ▼それまで何でも食べてきたが、下痢をしないのが自慢だった。自分の消化器はインド向きだと。そんな甘さは翌朝吹き飛んだ。夜明けの海岸で、水のような下痢、腹痛と一人闘った ▼この日の夜行列車でカルカッタに戻らないと安い航空券では日本に帰れない。寝台列車のトイレにこもった。便器の下にはじかにレールがあった。それがインド流。じっと向かい合った。(O)

    75. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(127) 相模金谷仮乗降場

       目当ての場所では、折よく草刈り作業が行われていた。横須賀線の衣笠駅から横須賀駅方面へ徒歩10分ほどの同市金谷2丁目。第二次世界大戦中の一時期、線路際に「相模金谷仮乗降場」が設けられていたという ▼線路(単線)と側溝の間に幅約5メートル、長さ50~60メートルほどのスペースがあり、作業用の車両が止められていた。折よくと書いたのは、その辺りの雑草が既に刈り取られ、盛り土された構造が見やすかったからである ▼戦争史の一断面の存在を知ったのは、蟹江康光著「横須賀線を訪ねる―120年歴史の旅」(交通新聞社)という本だった。「海軍工廠に徴用されていた工員達の住宅からトンネル入口に設置された仮乗降場の短いホームから横須賀駅までの乗客。駅も乗客も、終戦とともに姿を消した」とある ▼開業は1945年4月から終戦の8月まで。わずか4カ月だけの短命に終わった「幻の駅」だった。盛り土部分の横須賀寄りの端はスロープ状に造られていた。仮の施設とはいえ、これだけの短さだったとしたら、3両程度しか乗降できなかっただろう。戦況がいよいよ悪化する中で、工員らはどんな表情をしていたのだろうか ▼梅雨の晴れ間に恵まれた週末。線路を見下ろす坂道からカメラのファインダーをのぞきながら想像するしかなかった。電車の接近を作業員に告げる合図が鳴らされた。(N)

    76. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(126) インド国鉄の旅(1)

       摂氏40度を超える乾いた大地を長い編成の客車列車が行く。先頭のディーゼル機関車は「グルル、グルル」と、うなるが速度は上がらない。地平線まで続く赤土の大地を一日中ながめても飽きなかった。1980年初夏、インド国鉄の旅が気に入った ▼インドの旅は快適とはいえない。二等客車にエアコンはなかった。大平原の真ん中の小さな駅に止まると、熱風が吹き込む。窓には鉄格子があり、座席でじっと耐える。屋根まで「乗客」があふれるほどの超満員、人いきれも加わり汗だくになる ▼ときどきヤギも乗る混沌とした車内、のどは乾き意識がもうろうとする。東洋人で一人旅のわたしを興味深そうにちらちら見ていたおばあちゃんが、素焼きの器を差し出した。チャイが入っていた。あの甘さは忘れない ▼インド国鉄の乗客はなぜか荷物が多い。寝具や煮炊き用の品々まで持ち込む。貧困で食い詰め、よその土地を目指す家族連れなのか。インド人映画監督サタジット・レイの世界のようだ。懸命に生きる姿がそこにある ▼日本企業に勤める友人がせんだってニューデリーに赴任した。インド鉄道網整備の一端を担う。30年がたち地下鉄も走る。駐在員としての旅をネットで伝えてくれる。あの混沌世界はまだ残っているのだろうか。(O)

    77. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(125) 羊の国

       ニュージーランドの南島。羊が群れる。もう羊ばかり。白い胡麻を丘陵にばらまいたようだ。雨が降ろうが雪が舞おうが放し飼い。毛は水をはじいて温かい。ひねもす草をはむ。「生まれ変わるなら雌の羊がいいな」とツアーの添乗員が言った ▼彼の話。そのNZから友達が初めて日本に遊びにきた。まず交通渋滞に驚き「きょうはお祭りかい」。京都に行きたいというので新幹線の指定券を買ってやり、「日本の列車は時間通り。待ってくれないので遅れるな」と何度も念押しした ▼なのに案の定、友達は発車15分後に駅にやってきた。わけを話して何とか後続の電車に乗り込めたものの、友達は憮然。「NZなら置いてけぼりはありえない」。とはいえ、あとからあとから出る高速列車に目を丸くしたという ▼そのくらい南島はのどかだ。旅客列車は相次いで姿を消し、たまさか貨物列車が走る程度。この国には新幹線は売り込めないだろうと合点した。最後に友達は語ったそうだ。「日本もいいけれど疲れた。ボクは羊の国に帰るよ」 ▼話は変わる。下の写真は南島の町オアマルで見掛けた変な機関車。かつて特産の石材を港から積み出した鉄道駅の跡もある。機関車はオブジェ風で「スチームパンク」の看板。コイン2ドルで「ファイアー・ミー・アップ」とある。試してみたかったが、集合時間に追われた。いかにも日本人だった。(F) 

    78. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(124) 国鉄物資部のこと

       このコラムに国鉄の高島機関区の話を書いたことがある。昭和30年代後半の思い出だ。先日、関内駅近くの鉄道居酒屋「新横浜機関区」におじゃましたところ、店内に国鉄時代の物資部の看板が飾ってあった。「こんなものが残っているとは」と驚かされるとともに、実に懐かしかった ▼高島機関区にも国鉄共済組合の物資部があった。国鉄マンの端くれだった父親に連れられ、プレハブ造りのようなごく簡素な建物に入ると、食品、衣料、雑貨などであふれ返っていた ▼楽しみにしていたのは、ガラスケースの中に並んでいた干しぶどうを買ってもらうことだった。タバコより少し大きい厚紙の箱に、干しぶどうが詰まっていた。包み紙には頭の上に荷物を載せた外国人の女性が描かれ、南米か中南米の雰囲気が漂っていた。1箱15円だったと記憶している ▼横浜駅近くに国鉄の診療所もあった。現在の横浜駅きた通路の東口を出た辺りだった。小学生時代、初夏になると外耳炎やら結膜炎を発症した。学校のプールに入れなくなれば一大事である。真面目に通い、目を洗われたり、耳の中をかき回されたりした。印象に残っているのは、1階に飾られていた、コレラや赤痢などの疫病に罹患(りかん)した場合の便の模型だった。「こんなウンチが出たら死んじゃう」と怖かった ▼国鉄が分割民営化され、高島機関区も物資部も診療所も、そして住んでいた官舎も今はもうない。あのころの自分は幸せだったのだろうか、と思う。(N) (2012年5月18日)

    79. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(123) 暴走鼻眼鏡の片方(下)

       内田百閒「第三阿房列車」収録の「房総鼻眼鏡」の旅を急ぎ足(暴走)でたどっている。犬吠埼灯台から早々に引き揚げ、銚子電鉄線・犬吠駅から銚子駅に向かう。ちょうど受験シーズンで、犬吠駅では合格祈願乗車券を販売していた。「上り銚子(調子)ゆき」だの「銚子から本銚子(本当は〝もとちょうし〟と読むが)ゆき」だの、語呂合わせワールド全開である ▼途中、気が変わって仲ノ町駅で下車した。銚子電鉄の本社や車両検修場などがあり、日本一小さな電気機関車「デキ3」が止まっている。「かわゆいのう」。思わず口を突く。隣にはヤマサ醤油の工場がある。ぶらぶらと徒歩で銚子駅方面に向かう ▼前回も書いたが、百閒先生は銚子駅と犬吠岬(埼)を車で往復しているので、銚子電鉄での往復は足跡をそのままたどっているわけではない。銚子駅前でイワシ料理でも食べようと店に入ったが、売り切れだという。マグロなどの刺し身でビールを飲んだが、何となく面白くない ▼「今日のコースは成田経由の成田線である。これで夕方千葉へ著(つ)けば、鼻眼鏡の片方が成立する」。14時29分発の成田線千葉行きに乗る。百閒先生、車窓の風景に興趣を覚えず、成田中学の英語教師に赴任した鈴木三重吉のことを回想している。こちらは雨が本降りになるし、窓は曇るしで、目を閉じるしかない。下総神崎駅で酒蔵のイベント帰りの一団が乗り込んできた。酒臭い上に大声で話をするので閉口した ▼ともかく千葉駅着で鼻眼鏡の片方が完成した。もう半分はいつのことになるやら…。(N) (2012年5月4日)

    80. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(122) 北海道ワイド周遊券

       金のない中高生には、魔法のチケットだった。オホーツクの原生花園も、日本海の寒村も、太平洋の港町も、その一枚でどこへでも行けた。40年ほど前、北海道ワイド周遊券は、命、カメラに次ぐほどの価値があった。腹巻き代わりの貴重品入れに収めていた ▼何十も押される駅の途中下車印は旅の記録でもある。確か有効期間は21日間、学割と季節割引を使うと2万円ほどだった。使用後に「無効」の印を押してもらい持ち帰った記憶がある。なのにわが家の鉄道秘蔵品の中に見当たらない。愚かにも捨てたのか ▼当時、縦横無尽に走っていた道内急行の自由席は乗り放題。札幌と稚内、網走、釧路を結ぶ夜行急行を宿代わりにすれば宿泊費を節約できた。冬は空いている客車のボックスシートでL字になって寝た。目を覚ませば蒸気機関車を撮った ▼札幌から夜行利尻で稚内へ行き宗谷本線のC57を撮る。夜は上り利尻で札幌へ戻り翌朝、室蘭本線のD51を狙う。その夜は札幌発夜行大雪で網走へ向かい釧網本線のC58を撮る。札幌みかど食堂のカレーとラーメンが力をくれた弾丸ツアーだ ▼ある夜、急行大雪は暖房が効きすぎた。客車のデッキの手動ドアを開けると雪原から寒風が吹き込んだ。満天の星空があった。そんな周遊券の旅。(O) (2012年4月27日)

    81. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(120) テツ子の「日本海」

       日本海縦貫線にあこがれた。いつか乗り通してやろうと誓った。かつてキハ80系という美しい気動車が特急「白鳥」の名で走ったことも思い入れに輪を掛けた。だが、何しろ大阪から青森までである。ついでに乗るような用向きはついぞなかった ▼寝台特急「日本海」が定期列車の座を降りると聞いて、ついに腰を上げた。東海道、湖西、北陸、信越、羽越、奥羽の経由線が記された切符に胸が高鳴る。あと数日で廃止となる3月某日。夕刻の大阪駅10番線はファンで埋まっていた ▼B寝台6号車。物言いたげに、そわそわと落ち着かない女の子がいた。赤い頬、やがて21歳、この春に就職するという。親の反対もかまわず指定券を買った。帰途も「日本海」と明かした。そこらに黙していた年配のテツ乗客が集まって赤い頬を囲んだ ▼テツオジはテツ子に会えてうれしいのだ。直・交流の違いなどを解説する。赤ほっぺが懸命にメモる。ますますオジは図に乗る。近江塩津と加賀温泉で「サンダーバード」の通過待ち。「そう特急が特急に抜かれるんだよ」。講釈はやまない ▼朝ぼらけ。岩木山が現れた。女の子は早起きして窓に顔をくっつけていた。分かるなあ、その気持ち。オジも這い出てきた。「いいかい、うんと働いて、お金を儲けて、年取ったらまた汽車に乗るんだよ」「おじさんたちも長生きしてください」(F) (2012年4月20日)

    82. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(120) 暴走鼻眼鏡の片方(中)

       内田百閒「第三阿房列車」収録の「房総鼻眼鏡」の旅をたどり、総武本線で銚子に着いた。銚子電鉄線に乗り換え、犬吠駅に向かう ▼女性のガイドさんが乗り込み、沿線の観光スポットなどを案内してくれる。笠上黒生駅では、珍しくなったタブレット交換を見ることができる。ガイドさんは「さあ今、タブレットが交換されましたっ」と声を張るのだが、実際はごく事務的な受け渡しで拍子抜けした ▼百閒先生は銚子駅から自動車で犬吠岬(埼)に向かっている。途中、横手の砂浜から大きな黒い犬が跳び出してきて、車体にかみつきそうに吠(ほ)え立てた。「その吠え声と浪(なみ)の音が一緒になって、車の中で心細くなり、早くお酒が飲みたいと思う」 ▼この部分は百閒先生のサービス精神に基づく創作だと考える。犬吠岬に行く。「犬」が「吠」える―。何しろ幻想的な小説を書く人である。「第三―」に収められている「菅田庵の狐 松江阿房列車」では、旅館の宴席にキツネを登場させる。紀行文だからと油断して安穏と読んでいると足元をすくわれ、実に怖い。黒い犬を出すなど朝飯前なのだ ▼キャベツ畑を進んだ電車は犬吠駅に到着。徒歩で灯台に向かう。百閒先生は白亜の構造物のそばまで行き、いろいろと案内を聞いた末に、やはり上らなかった。さすがである。多くの観光客が上の方でわいわいやっていたが、先生の教えに従い?そのまま駅に引き返すことにした。倦(う)み疲れたような観光地が大嫌いなのである。それにしても、こうした場所の望遠鏡が必ず故障中なのはなぜだろう。(N) (2012年4月6日)

    83. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(119) 東か西か、分水嶺で迷う

       突然、あす会社を休んでしまおうか、という日がある。平日なのに何も予定が入っていない。(自分など)いてもいなくても誰もかまわない。しかもその翌日は休日である(連休となる) ▼そういう条件が整った日が、たまに、それも急に訪れる。近所の本屋で大判の時刻表を購入する。当日は釣りにでも行くみたいに、明け方目覚める。その時点でも、(行き先は)東か西か、日本海側か太平洋側か決めかねている ▼でも結局、雪の誘惑に勝てず、冬ならば、決まって秋田方面に足が向かってしまう。「こまち」に乗り込んで、こんもりした雪にとざされた雫石、田沢湖駅あたりまで来ると、ぐっすり眠りに落ちる。だいたい、いつも同じパターンである ▼秋田駅前に粉雪が舞う。都会のべた雪と違い、フラフラして、なかなか地面まで落ちてこない。居酒屋で出たハタハタの塩焼きは、腹に卵をいっぱい抱えている。一人ぬる燗(かん)を飲みながら、翌日の旅程を練る ▼早朝、「リゾートしらかみ」で五能線に入る予定が、大雪・高波で「鯵ヶ沢」止まり。ならばと、秋田から南下し、陸羽西線、東線へ入る。本州を横断していくうち、重苦しい雪空が、ぬぐったような青空に変わる。ちょうどそのころ、列車が停車したのは山峡の陸羽東線・堺田駅(山形・宮城の県境)。分水嶺の駅だという。そばに山の水が流れ込む池がある。天候同様、水もここで日本海側と太平洋側に分かれるのだ。東か西か、池に舞い落ちた葉っぱも、さぞかし迷うことだろう。(S) (2012年3月30日)

    84. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(118) 暴走鼻眼鏡の片方(上)

       内田百閒「第三阿房列車」収録の「房総鼻眼鏡」の旅をたどろうと思う。初日は総武本線の汽車で両国~千葉~成東~銚子。犬吠埼(岬)に足を延ばし宿泊している。2日目は成田線で銚子~成田~千葉と戻って泊まり。これで鼻眼鏡の片方が完成した ▼3日目も千葉を起点に房総西線(内房線)で館山を回って安房鴨川で泊まり、4日目は房総東線(外房線)で勝浦~大網~千葉と走ってもう片方の鼻眼鏡を描き、稲毛に一泊。5日目に東京に戻るという「天皇陛下の御巡幸より手間が掛かる」旅である。残念ながらこの通り再現するほど暇はない。東側の片方の眼鏡を1日で乗り倒そう ▼百閒先生、ローカル線の乗り継ぎを「三等旅行」と、いささか軽侮している。毎度同行のヒマラヤ山系氏は汽車が動き出すや「風(邪)を引きそうなのです」と、キャラメル、稲荷鮨、サンドウィッチを平らげる。さて、こちらは東京駅9時40分発の特急「しおさい3号」でスタートする。山系氏に敬意を表し、稲荷鮨を食べた ▼雨雲が垂れ込めた田畑を眺めつつ、父親が八街に家を建てようとしたが家族の反対でやめた昔の出来事などを思い出した。11時25分、銚子駅着。百閒先生の旅に比べたら「暴走鼻眼鏡」とでも呼ぶべきか ▼銚子電鉄線に乗り換えようとしてウロウロしてしまう。JRのホームの端っこに、かわいい駅舎?があった。トコトコと1両の電車が入線し、外国人の鉄子さんが夢中で撮影していた。(N) (2013年3月23日)

    85. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(117) 福島の日常(2)

       3月初め、福島県の川俣町中央公民館に子どもたちの歌声が響いた。小学校5年生が自作の曲を披露する小さなコンサートを開き、子や孫の晴れ姿を地域の人たちが見守った。雪晴れのさわやかな日、何の変哲もない一日だ。皆、原発事故の計画的避難区域からやってきた ▼飯舘村に接し、豊かな森が自慢の川俣町山木屋地区に暮らした。仮設住宅やアパートへと、ばらばらになった。8人家族の11歳女子・風那さんは離れた祖父母の健康が気になる。気丈な振る舞いに悲しさが募る。家族のぬくもりを奪った原発事故は罪深い ▼地域再生を願う曲「わ」を歌ったコンサート。丹沢のふもとに住む20年来の友人と偶然会った。新幹線で東京から1時間半の福島。なのに東北線の鈍行を乗り継ぎ7時間かけたどり着いた。秦野を出たのは夜明け前、大宮から直通の鈍行はなく宇都宮、黒磯、郡山で3度乗り換えた ▼鉄道紀行の宮脇俊三さんはあの世で何と思っただろう。寒冷地仕様の手動ドアに感激、部活に向かう中学生の歓声に目を細め、がらがらの車内にため息をつき… ▼失われた命と日常を思うと、スローに福島へ入りたかった。友人はそう話した。原発事故で、便利さに後ろめたさを感じたのか。翌日の帰り道も、もちろん鈍行の旅だった。(O) (2012年3月16日)

    86. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(116) 呉線のC62(下)

       呉線のC62さよなら運転から1週間後の山手線五反田駅。夕刻であった。並行する貨物線に新鶴見発の貨物列車が通過していく。EF15の次位につながれて北上する黒い鉄塊。「あっ、まさか」。一人の鉄道ファンが声を上げた―。これは鉄道誌に載っていた話である ▼呉線のC62転出。この情報は翌日、某鉄道雑誌に届いた。全機廃車ではなかったのか。編集部は大騒ぎとなった。特ダネだ。国鉄に駆け込む。怒号じみた詰問。なぜ教えてくれなかったんですか ▼果たせるかな、行き先は函館本線。しかも2両。15号機、16号機だという。詳細を突き止めた時はもう東京からの追跡は不能だった。無火回送のダイヤは意外に早く、先発便は既に津軽海峡の連絡船上、後発便も盛岡あたりにあった。写真をおさえて記事をぶちこみたい。編集部は最後の手段、窮余の策に出る。某大学鉄研のシンパが知床にいる。だが深夜。回送先の岩見沢操車場も遠い。電話でたたき起こされた学生はさすがに怒った ▼当時の函館本線も無煙化を控え、C62の追われる身に変わりはなかった。定期検査の迫る好調2機をあえて廃車にし、検査まで1年余の猶予のある呉線の2機と入れ替える。その道行きだった。当座の延命。糸崎からの北国転身は人生の残照とも見えた。15号機の動輪は今日、東京駅コンコースにある ▼さて、くだんの学生は怒った。しかし、こう怒ったのである。「なぜ、もっと早く知らせてくれないんです!」(F) (2012年3月9日)

    87. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(115) 駅に「どこでもドア」

       通勤でJR根岸線の横浜―関内間に乗っているが、朝は遅延がままある。ホームの表示板を見ると次発電車の出発時刻が消えている。「またかいな」。出はなをくじかれた気分になる。マイクでおわびを続ける駅員も大変だろうが…。わずか2駅が遠い ▼数えてみたら京浜東北・根岸線は大宮―大船が計46駅にも上る。どこかでホームからの転落事故や急病人が発生するのは、確率の問題でもあろう。気分が悪くなったり、貧血を起こしたりは仕方ない。しかし、車両との接触やホーム下への転落は、ホームドアの設置によって、かなりの部分が防げる。視覚障害者の事故も減らせるとすればバリアフリーの向上につながる ▼ホームドアでなじみが深いのは、シーサイドラインや横浜市営地下鉄だろう。両線はワンマン運転のため、安全を確保する上でホームドアが不可欠だった。シーサイドラインはプラットホームスクリーンドアという背の高いドア。市営地下鉄はホームさくと呼ばれる胸の辺りまでのドアだ ▼遅々としてではあるが、ホームドアの設置が広がりつつある。車両のドア数の違いなどによる位置の変動に対応する機能が課題だが、メーカーの開発が進んでいるという。相互乗り入れを行っている駅にも設置が可能になる ▼「ドラえもん」ではないが、「どこでもドア」が駅を進化させることに期待したい。(N) (2012年2月24日)

    88. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(114) おしゃまんべ

       長万部を、おしゃまんべと読める人は鉄道好きだろう。北海道・内浦湾の奥に位置する地味で小さな海辺のまち。函館本線と室蘭本線が分岐する交通の要衝として、その筋の人たちには知れ渡っている。鉄道エッセーで有名な宮脇俊三さんによれば「カレイのいる所」の意味だ。かつてC62重連急行ニセコが小樽へ向け出発した ▼ほぼ40年ぶりに再訪すると、地味さに磨きがかかっていた。国鉄時代の名残か、駅全体のスケールは大きいものの人や列車の姿があまりに少ない。寂しさが募る。待合室の片隅に店を出すおばさんは所在ない。駅前は素寒貧とまで言っていいのか ▼一つ、記憶がよみがえった。毛ガニの輝きだ。ここの駅弁カニめしは森のイカめしと並ぶ名物のはず。その姿を探した。あった。売店のおばさんをひやかすおじさんのジャンパーの背中に「カニめし」の大文字が ▼ジャンパーの後を付けた。最初の角を左折、すすっと右の奥に消えた。弁当屋を突き止めた。ほっかほかのカニめしを手に入れた。札幌行き特急でビールのつまみになった ▼登別で鈍行に乗り換えれば白老に着く。寒村の丘に立つ宿は静かな太平洋を望む。その先の東北を思った。海に生きる長万部への否定的な物言いを悔いた。ざんげの旅でまた行くよ。(O) (2012年2月23日)

    89. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(113) 呉線のC62(中)

       私のかつての雑文から引用する。「早朝の駅構内。眠りから覚めたC62たち。いたぞいたぞ、足回りに白い蒸気をまといながら暖気する姿。黒々とうずくまっていたものが身を起こし、次第に筋肉に力をみなぎらせていく様子。す、す、すげえ」 ▼呉線広駅の朝の光景はつとに知られていたらしい。蒸気機関車牽引の広島行き通勤列車が相次いで出発する。そのさまをこのまま構内で撮るか、それとも沿線に駆け出していくか。迷ったのがいけなかった ▼私は後者を選んだ。しかし、詳しい地図を持たず、下見もせずのうかつさ。出たとこ勝負のポイント探し。案の定、ひとけのない見知らぬ街を右往左往してしまった。汽笛が上がる。もう列車が動きだす。焦りがつのる ▼「撮りテツ」というほどではなかった。カメラも貧弱なら腕前も未熟。ただ機関車を追い掛け、その証拠写真を欲した。いつだったか播但線ではC58とともに田のあぜ道を突進し、クギを踏み抜いて怪我をしたことがある ▼やっと線路ぶちに出た。来る。もう破れかぶれ。あの瞬間は生涯忘れない。以下、再び引用。「灰色の煙を天に吐きつつ、それで半ば天を覆いつつ、ゆっくり近づく。地面に重量感、切迫感が伝わり、強まり、巨人の歩みのような動輪が目前を圧倒していった。蒸気が地を這い、立ち上がり、地響きが残った」―。撮影は結局、失敗に終わった。(F) (2012年2月10日)

    90. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(112) 駅そばを考える

       寒気に包まれた北国の停車場の一角。立ち食いそば店から湯気が上がり、だしの香りが辺りに漂う。麺をすする男たちの背中は一様に丸い。どこからか飛んできた風花が降りかかる。「おまちどうさん」。おばちゃんの親指がつゆの中に浸っている… ▼「ご当地『駅そば』劇場」(交通新聞社新書)が面白かった。読了後、駅の立ち食いそばを「駅そば」と表記する習いが、どこまで一般化しているのだろうかと思った。ちなみに「かながわ定食紀行」で神奈川新聞と縁が深い今柊二さんは立ち食いそばにも造詣が深く、「立ちそば大全」(竹書房)という著書もある。今さんは同書で駅構内のみならず街のスタンド&セルフサービス形態のそば店まで幅広く含め、「立ちそば」と書き表している。「食い」の2文字を省略しているのはなぜか。一般的な呼称なのか。今さんにお会いしたら伺ってみたい ▼小欄は鉄道にかかわるテーマで書くのが約束であるから、「駅そば」にしぼりたい。旅情を誘うのは、やはりホーム上の店舗である。構内のゆったりした店舗の方が落ち着くという向きもあろう。改札を出ても同じ建物内なら駅そばなのか。駅から近い店を同ジャンルに含めていいとすれば、半径何メートルまでか、などと疑問は尽きない ▼いったい何杯の駅そばを食べてきたのだろう。今はなき東急線・高島町駅のそばを朝食代わりに食べていた時期もあった。都内を足場に仕事をしていた時代は、帰りによくJR品川駅の常盤軒に立ち寄ったものだ ▼駅そばに関する本格的?な考察は次回以降に譲りたい。(N) (2012年1月30日)

    91. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(111) 鉄道少年と温泉おやじ

       厳冬期に一番行きたい温泉は、と問われれば迷わず北海道の新見温泉・新見本館と答える。ニセコの山懐に抱かれた秘湯である。背丈をはるかに越える積雪と地吹雪が迎えてくれる。大量に湧き出る源泉、雪山を望む露天風呂。人を圧倒する自然を前に世俗の小さな悩みなど吹き飛ぶ ▼たどり着くのは容易でない。最寄りは函館本線蘭越駅。朝、羽田から千歳に飛び小樽まで快速エアポートに乗る。ここから鉄道の醍醐味だ。2~3時間に一本の長万部行き鈍行を逃してはならない。雪の峠をいくつも越え2時間、夕景色の蘭越に着く。寡黙な宿の主人が車で迎えに来てくれた ▼函館本線は随分と寂れてしまった。C62重連の急行ニセコが駆け抜けたとき、この山線は蒸気機関車ファンであふれた。上目名、倶知安、小沢、長万部といった駅名を聞けば、当時の興奮がよみがえる ▼駅舎にはカメラバッグに防寒装備の鉄道少年の姿があった。石炭ストーブで暖を取り、氷点下20度の雪山で撮影場所を探した。C62重連ニセコを誰よりも美しくフィルムに収めたかった ▼あれから間もなく40年。鉄道少年が訪れる機会のなかった新見本館は変わらぬときを刻む。そして厳寒を厭わなかった少年は、ゆる~い「温泉おやじ」に姿を変え戻ってきた。(O) (2012年1月20日)

    92. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(110) 呉線のC62(上)

       「シロクニ」という愛称が嫌いだった。あだ名などいらないくらいに「C62」は押しも押されもせぬ機関車であったはずだ。生まれも同じ1948年。動輪の直径も1750ミリと自分の身長とあまり変わらない。それだけ思い入れも深かった ▼曲折はあったにせよ国鉄最後の花形機。豪華なハドソンの足回り。丸みを帯びた美しい胴体。狭軌を走るには身をもてあますほどだが、その均整にほれぼれとした。だが、それゆえ軸重や車軸配置からいって、規格の低い線区には転出できない。自らの適応を狭める宿命を背負ってもいた ▼幹線優等列車専用の49機はやがて電化に追われる。多くが山陽本線の甲線規格のバイパス・呉線にすみかを移したのは当然のなりゆきだった。巨像が死地に集まるふうにさえ見えた。同線の全線電化は1970年。いよいよ架線柱の立ち並び始めたころ、沿線を訪れた ▼築堤の上を、切り通しの下を、線路に沿う砂利道の中をカメラ片手に歩いた。糸崎から寝台急行「安芸」をヘッドマーク付きで牽引する姿に興奮した。だが一方で、ひとつの急行の区間業務だけに身をやつした姿が切なくもあった ▼落ちのびた武将のような、早晩、落ちのびていくところさえなくなるだろうC62の無聊―。くすんだ客車を引き、下り勾配で絶気して軽々と走る姿に、瀬戸の落日が重なってみえた。(F) (2012年1月13日)

    93. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(109) オジサンはミタ

       12月23日正午ごろ、油壺での取材を終えて京急線三崎口駅ホームにいた。折り返しで12時6分発泉岳寺行きとなる快速特急が滑り込んできた。2100形、2ドア・クロスシート車両である。終点までの乗客が降りたので、入れ替わりに乗り込もうとすると、しばらく待つようアナウンスがあり、ドアが閉まった ▼思い出したのはJR高崎線の高崎駅で、折り返しの上野行きに乗る際、車内清掃で待たされることだ。乗る人の列が長いと焦るんですよね。しかし、快特に作業員が乗り込む様子はない。その時、モーター音が高まったと思いきや、座席が一斉に「バッターン!」とばかり向きを変えたではないか! ▼見ましたよ、スモークガラス越しに。確かに。そうでした。そのまま折り返し運転したら、座席は後ろ向きだもんね。間が抜けてるもんね。当然といえば当然のことながら、かなりの驚きと満足であった。「ふーん、いすの向き変更はそうやりますか」という感じである ▼車上の人になった。通勤時、上大岡駅の上りホームの乗り換えで2ドア車にぶつかると、歓迎しかねるというのが正直なところだ。座席が埋まっているのは仕方ないとして、立っている乗客のスペースが3ドア車に比べ狭い。乗客間格差が大きすぎないか? ▼そんな愚にも付かないことを考えつつ、快適な乗り心地を楽しんだ。「2ドアいいね、座れれば」(N) (2011年12月30日)

    94. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(108) 福島の日常(1)

       ごっとん、ごっとんと路面電車のようだ。福島と飯坂温泉を23分で結ぶ2両編成の福島交通飯坂線は、住宅の軒をかすめ田園地帯に出た。病院通いのお年寄りや制服姿の女子高生たちを乗せて走るローカル線だ。クリスマスイブのこの日、女子大生らしき5人組がピザやワインを手にはしゃいでいた。これからパーティーなのだろう ▼遠くに雪化粧をした奥羽山脈が美しい。ハクチョウが羽を休める松川を渡り福島から五つ目の上松川に着いた。単線で質素な駅の近くにある人気のラーメン屋には長い行列ができていた。列に並ぶのをあきらめ福島に戻ると、イブを祝う仙台行き観光列車が発車を待っていた。何の変哲もない日常があった ▼3・11の東日本大震災と原発事故からときが経ち、みんな何げない日常を笑顔で生きたいのだろう。だが、市内の放射線量が重くのしかかる ▼十数件あった旅館のほぼ半数が廃業や休業に追い込まれた温泉地もある。地震被害と風評被害、二重の苦難にはあらがえない。若葉、紅葉の観光シーズンを逃し、いまでも客は例年の3割ぐらいと嘆く ▼温泉大国の人たちに待ちに待った冬が訪れた。雪見の野天風呂は、心も体も十分に癒やしてくれる。福島にはそんな別天地が多い。だからもっと福島に行こう。(O) (2011年12月28日)

    95. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(107) 高崎線家族

       イッセー尾形の一人芝居を見た。新ネタの12月公演(渋谷・クエストホール)である。中に「高崎線家族」とでも名付けたい新作があった。それは赤ちゃんを前抱きにしたお母さん。高崎から電車に乗った体で「さあ、大宮まで立って行くよ」。これだけで客席がどっとわいた ▼男児2人を両側に従え、さらに老いた母も連れている。男の子が乗客に押されて見えなくなる。「あんた窒息するよ」でまたどっと。老母は車内のトイレを目指すが、すぐにあきらめて戻る。どうやらJR高崎線の混雑は相当らしい ▼大宮までの路線は74キロ余と長く、沿線人口も増えた。なのに代替となる並走の私鉄もなく、乗客サービス上の構造的な問題が指摘される。ネットをのぞくと利用者の嘆きが並ぶ。ラッシュ時は「大宮までギュウギュウで身動きできない」「本も読めない」 ▼驚いたのは「上尾事件がまた起きる?」などという書き込みである。事件とは国鉄時代の38年前、上尾駅で起きた乗客の暴動。当時の組合の順法闘争で列車運行が遅滞、運休したことが直接の原因だった。昔と比べれば混雑も改善されたはず。冗談にしても物騒である ▼さて一人芝居の続き。赤ちゃんのおむつ替えに乗客が協力。車内の離れたところに帰宅中のお父さんを発見するや、乗客がバケツリレー式の伝言―。この分なら暴動など起こるまい。(F) (2011年12月16日)

    96. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(106) どん詰まり

       鉄道の行き止まり駅が好きだ。線路はこの先、もうない。どん詰まりである。あっけらかんとした空間。ホームで電車を待つ人も何となく気が抜けたような、寂しげなような… ▼京急大師線・小島新田。駅周辺はマンションが多い。工場地帯という勝手に抱いていたイメージと違った。その昔、さらに先に塩浜駅があったそうだが、JR塩浜操車場建設により廃止されたという。駅前から海側に陸橋が延びている。橋の下はJR貨物の川崎貨物駅である ▼海側には中小の工場が立ち並ぶ。夕刻、仕事を終えた男たちが駅に向かい橋を渡ってくる。駅周辺に何軒か酒を飲ませる店がある。男たちは店内の時刻表を視線の片隅に入れながらグラスや杯を重ねるのだろう ▼JR鶴見線・海芝浦。晩秋の西日が目を射る。汚れた海を風が吹き渡り、その向こうに首都高速湾岸線。東芝関係者や取引業者でないと改札を出られないが、海芝公園という細長く寂しい場所を歩くことはできる。どん詰まりの駅の先の、どん詰まりの公園は、歩いてもすぐ飽きる。引き返すしかないのだ。途中、浅野で降りて沖縄そばを食べよう ▼京急線・浦賀駅。海に近く、ホームは割合高い位置にあるが、見晴らしはよくない。浦賀署の前を過ぎ、内湾に沿って歩くと西叶神社に至る。渡し船で東浦賀へ。何度乗っても気持ちが晴れ晴れとする。東叶神社に参拝。駅前に戻り、食堂でビールでも飲もうか。(N) (2011年12月2日)

    97. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(105) 秦野の車窓の先に

       小田急線の東海大学前から秦野までの車窓は圧巻である。北側に丹沢から連なる山がぐぐっと迫ってくる。何の変哲もない神奈川のベッドタウンを走り抜けた小田原行き急行の車内は、自然の力を受けて一気に華やぐ。乗客の灰色の表情が明るく色づいた。「ふぅー」と、誰かが肩の力を抜いた ▼秦野駅は丹沢と渋沢丘陵に囲まれた盆地の真ん中にある。随分と前に新装してから情緒はなくなった。駅前の水無川を渡ると営業をやめた商店が続く。地方都市のいまの光景、路地を選び山に向かって歩いた。11月最後の日曜日、風はひんやり、背中のザックの一升瓶がたっぽんと鳴る ▼50分ほどで名古木(ながぬき)の里山に着いた。コナラ、クヌギ、イチョウが秋色を競う棚田があった。大勢の都会の人たちが、にぎりめしやタケノコ、山菜、日本酒を囲んだ。収穫祭はにぎわった ▼担い手をなくし荒廃した棚田をNPOが復元した。機械を使わない田植えの後も、あぜ道に穴を開けるサワガニと格闘、1日で体重が2キロ減るメタボ効果抜群の農作業を続けた ▼棚田復元を提案したのは、くたびれたおやじたち。会社での生き残りに汲々(きゅうきゅう)とした、なんて野暮な会話は収穫祭ではない。実りを喜び元気をもらう。小田急線の車窓の少し先に、その里山はある。(O) (2011年11月30日)

    98. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(104) 「屋島」再び

       一昨年だったか、郷里の四国に帰省した折に高徳線に乗った。といっても高松から志度までJRで行って琴電志度線で高松に戻るという気ままな往復であった。途中に屋島駅がある。源平の古戦場。有名な観光地の玄関口であるはずだが、近年は寂しい ▼ともに無人化の道をたどった。山頂へのケーブルカーも廃止された。JR屋島駅は地元が管理して特急停車駅としての面目を保とうとしている。そうした中で引田行きのワンマン気動車に乗って驚いたのは、女声のテープアナウンスだった ▼「やしま」という発音が聴いたことのない調子だったのだ。アクセントが最初にこない。平板で抑揚がない。まるで受け流す感じ。こんな沈んだ「屋島」はない。名折れというよりも地名呼称上の誤りではないか。地形からいってもふさわしくない。そう思った ▼あれからずっと気になっていた。疑問を質したい。指摘したい。あのままにしていいのか。あの発音が当たり前になったらどうしよう。身近な例でいえばJR関内駅の「かんない」アナウンスだって二通りのイントネーションがある。気にする方がおかしいのか ▼で、今夏。高徳線全線に乗った。屋島駅が近づくにつれドキドキした。果たせるかな、今度のテープアナウンスは昔から耳なじみの「屋島」であった。とりあえず安堵した。ふるさとへの小さなこだわりである。(F) (2011年11月18日)

    99. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(103) 限定富士山車窓風景

       夕刻、富士川の鉄橋を渡り、上り「のぞみ」は田子の浦付近にさしかかる。すぐ後ろの座席でさかんにデジカメ(ケータイ?)のシャッター音がする。山側のカーテンを払うと、富士山が窓いっぱいに併走している ▼赤富士になる一歩手前、薄紫色の山容に雲がたなびく。裾野に無数の家々が張り付いている。砂粒のような屋根が宝石のごとくきらめく ▼「お気に入りの景色が見られる区間」はどこ? JTBのアンケート調査によると、全国の車窓風景で一番人気のある区間は「三島~静岡」。もちろん富士山が見えるからである。田子の浦はそのちょうど中間に位置する ▼「鉄道ひとつばなし」(原武史著)は、夏目漱石の「三四郎」を引き合いに出しつつ、当時、東海道本線から見えた富士山について触れている。「車窓に富士山が最初に現れてから最後に見えるまでの距離は約170キロ、時間に換算すると、『三四郎』の書かれた当時(1908年)最も速かった列車ですら少なくとも4時間に及ぶ」 ▼それが、丹那トンネルの完成や新幹線開業も経て、今、三四郎と同じように上京したら、車窓から富士山をよく眺めることができるのは、全部合わせても20分余だという。将来富士山の「出番」はもっと減るかもしれない。シャッターを押す。飛ぶように流れる前景の向こう、ピンボケな富士は傾いて写っていた。 (S) (2011年11月11日)

    100. 前照灯

      鉄道コラム前照灯(102) 阿漕な話

       旅の僧が密漁をして海に沈められた漁師の霊から懺悔(ざんげ)を聞く。世阿弥の作とされる謡曲「阿漕(あこぎ)」である。三重県津市の阿漕ケ浦は、伊勢神宮に供える魚をとる海として禁漁の地であった ▼青春18きっぷを利用し、中京から関西を一人で旅行した昨年夏の話だ。名古屋発の快速みえ号で伊勢神宮、鳥羽水族館をめぐる日程を組んだ。みえ号は関西本線~私鉄の伊勢鉄道~紀勢本線~参宮線を経由して運行している ▼青春18きっぷでは、伊勢鉄道分の運賃を別途支払う必要がある。行きの車中、車掌に申し出て河原田~津の490円を渡した。伊勢神宮の参拝、ジュゴンのいる鳥羽水族館見学は実に楽しかった ▼ところが、帰りの車中のことである。酷暑の中の各駅停車の旅で疲れてもいた。紀勢本線・阿漕駅の通過は覚えているのだが、電車に揺られる心地よさに、ついウトウトと…。気がつくと伊勢鉄道線内はとっくに過ぎ、関西本線の桑名駅辺りを走行中だった ▼さて、どうする? みえ号は一部指定席で、車掌は自由席の検札は行わず通り過ぎるだけ。伊勢鉄道分の運賃支払いは事実上、自己申告制なのだ。その際、車掌がもう来なければいいのにと思ってしまった心の動きを反省している。このコラムの執筆者としてあるまじき阿漕な心根と弾劾されようとも仕方ないと思う。これは懺悔であります。 (N) (2011年11月4日)