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少女が星々を砕いた理由
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少女が星々を砕いた理由

小説:高柳亜論  イラスト:つくぐ
あらすじ
天文部員の式彦と望海は、トラウマを抱え、とある秘密を共有して生活していた。しかし、何者かによるプラネタリウム破壊事件をきっかけに、秘密の絆が綻びはじめる……ジャンプ小説新人賞'15 Spring小説テーマ部門( テーマ【妹】)銅賞受賞作!!

 

「兄さん、このペースだと遅刻しますよ」
「ん、だから?」
 意識はまだ眠りから完全には覚めていなくて、僕は欠伸をする。四月の午前八時はまだ少し肌寒い。薄手のマフラーに僕は顔をうずめる。このまま眠ってしまえたらどれだけいいだろう。
「少し急ぎましょうって言ってるんですよ」
「嫌だよ、汗かいたシャツで授業受けるなんて冗談じゃない」
「……じゃあどうするんですか、本当に遅刻しますよ」
「ゆっくり歩きながら遅刻した言いわけを考えようじゃないか。汗もかかず教師にも怒られない一石二鳥の素晴らしい言いわけを」
「もう兄さんはいっつもそうやって斜に構えてばかり……。ほら走りますよ」
 望海(のぞみ)に手を引かれる僕。僕と違って朝から向日葵みたいな笑顔を浮かべることのできる望海の白くて少しだけ冷たい手の感触――、僕は目を閉じて想像する。僕と望海の温度が接しているその部分、瞼の裏側でその先を想像する。目を開ければそこには望海がいるはずだけれど、僕の瞼の裏側には別の少女が浮かぶ。その少女のことを思うと心臓に電気が走ったみたいに苦しくなって、それでも僕はその瞼の裏側の少女に手を伸ばす。するとその手が掴まれる。そしてはっとして目を開ける。
「もう、兄さん走りながら寝るとかどれだけ器用なんですか」
「なんだ望海か」
「ふふ、ユメでも見てたんです?」
 ユメ? あれはユメなのだろうか。あれは、僕が失ってしまったもの。もうどこにもいないはずなのに僕の瞼の裏側にだけはいつも存在している。あまり考えると切なさに支配されるのが判ったので、思考を逸らすために辺りを見渡し、「あ、野良猫」と脈絡のないことを言う。
「ああ、そうですね」
「なんだよ、淡泊な反応だな」以前の望海なら喜んで野良猫を追いかけていたはずなのにと違和感を覚えながら、けれどすぐにその答えに思い当たった。「そう言えば、お前がずっと遊んでたあの野良の三毛猫はどこに行っちゃったんだろうな」
 高校へ向かう道で見つけたその三毛猫は、いつも決まって病院の駐車場にいて、望海はその三毛猫に餌をやったり抱きかかえたりしてじゃれ合っていたのだ。その三毛猫が先日いなくなってしまってから、望海は他の猫にも関心を示さなくなった。
「さあ、きっと誰かに拾われたんですよ。あの子すごくかわいかったから」
「いいなあ猫は。僕も誰かに拾われて働かずに餌を与えられて生きていきたいぜ」
「あはは、兄さんは私が養いますよ」
「あんまり甘やかすなよ、惚れてしまうだろ。僕は僕に優しい人間みんな好きなんだ」
「ほら、急がないと本当に遅れますよ、兄さん」

 

 校門をくぐって校舎に入ると異様に廊下が騒がしかった。その喧噪は、あるひとつの教室を囲うように広がっている。そしてその教室というのが、どうやら僕と望海の所属している天文部の部室であるらしいのだ。
「あ、式彦(しきひこ)ちょっと大変なんだって」
「ああ芹沢(せりざわ)、これどうしたの?」
 芹沢は同じ天文部の部員で、おっぱいの大きさ以外はほとんど目立つところない僕のクラスメイトである。
「ちょっと、なんで私の胸に話しかけてんのよ」
「お前のおっぱいにおはようを言うところから僕の一日は始まるんだよ」
「ああああああ気持ち悪い!」芹沢は肩まで伸ばしたセミロングの黒髪を掻き乱す。「いやいやでも今は式彦の変態行動はどうでもよくてさ、この騒ぎよ」
「これうちの部室よね」望海が芹沢に訊く。
「あ、箱宮(はこみや)先輩、おはようございます」芹沢は望海に丁寧なあいさつをする。それから僕だけに聞こえるように、「ねえ、式彦って箱宮先輩とどういう関係なのよ。いつも親しげだし、通学も一緒みたいだし、もしかして付き合ってんの? 年上の彼女とか?」
「んなわけねえだろ」僕は芹沢が耳打ちしてきた言葉を一蹴する。「で、この騒ぎは何なんだって」
「――プラネタリウムが壊されたの」
 それは天文部が新入部員勧誘のために部室に作った家庭用プラネタリウムのことであろう。僕と望海と芹沢と他ふたりの五人がそれなりに苦労してそれぞれの偏った拘りを詰め込んで作り上げたソレが壊されたというのである。
 僕はどんな具合に壊されたのか気になって、人波をかき分けながら部室を目指すがなかなか前へ進めない。けれど望海が「ちょっとごめん」と一声放つと、その人だかりはぱっくりと別れて、道ができる。そして「うわー、箱宮先輩超可愛い!」「箱宮さんほんと美人だよなー」などの賛美が飛び交う。
「……モーゼかな?」僕は誰にでもなくそう言うと、モーゼ望海が切り開いた道を歩いて件のプラネタリウムが壊された現場を目撃する。
「これ、どう思う? ひどくない?」
 部屋をなるべく暗くするために壁に貼り付けていた黒い画用紙が散り散りになって床に散乱し、部屋の中心に置いてあったプラネタリウムはまるで爆発したようにただの発泡スチロールの欠片と塊に成り果てていた。
「酷いよね? この事件、私たち天文部がさ、誰が何のためにこんなことをしたのか調査しようよ。そんで犯人捕まえてさ、なんか文句言ってやんないと気が済まないって」
「芹沢はミステリ小説とか好きだからな。そういう展開になると思ったんだろうが、生憎僕はまったく興味がないのでパス」
「……だから私のおっぱいに話しかけるのやめろって」芹沢は、別段頬を赤く染めることもなく僕の頭にチョップをかます。「箱宮先輩はどうですか、犯人に興味はありませんか?」
「うーん、まあまた新しいのを作りましょう。とりあえず今日の昼休みに修繕できるとことはしてしまいましょう」望海はお手本みたいな笑顔で答える。
 僕と望海によって、ミステリ的な展開を逃した芹沢は肩を落としてしまう。僕は部室の時計を確認して、「そろそろ教室行かないと授業始まるぞ」と芹沢のおっぱいに言った。

「式彦は、誰がプラネタリウムを壊した犯人だと思う?」
「そりゃあ第一発見者が一番怪しいんじゃねえの、定石的に」
 一限目が終わり、休み時間になるやいなや芹沢は僕の席までやってきて先ほどの騒動をプラネタリウム破壊事件などと命名し、その真相を突き止めてやろうと瞳を輝かせている。
「第一発見者は私だからその推理は外れね。ちなみに部室に忘れてた小説を取りに行ったときに発見したの」
「もうお前が犯人でいいじゃん。おっぱい大きいし」
「いやいやおっぱい関係なくない? つうかもう少し真面目に考えてよ。私はさ、式彦ってなんか探偵ぽいって思うことあるわけ。数学とかテストの点数はすごく悪いけど、でも誰も解けない難問を解けてたりするじゃん?」
「捻くれてる問題の方が得意なんだよ。素直すぎる問題は裏をかきすぎて自分の答えが不安になって何度も解き直してるうちにタイムアップ」
「……ああ、そういうことだったのね。じゃあその捻くれた頭で今日の事件のことも考えてみてよ。事件現場に残されたヒントとか、野次馬のリアクションとか、そういうものから推理してみて」
「あ、犯人判ったわ」
「嘘! マジ!」
「まじまじ」
「教えて!」
「おっぱい揉ませてくれたらね」
「死ね!」
 僕は当然犯人など判っていない。そもそも僕の頭が推理すらしようとしていないのだから、判る筈がない。ただのおっぱいを揉むためだけの口実である。
「はあ、」芹沢は呆れたようにおっぱいと同じくらい大きなため息を吐く。「式彦に相談した私が莫迦だった」
「うむ」僕は意味もなく大仰に頷いた。
「まあいいや」二限目のチャイムが鳴ると芹沢は自分の席に戻ろうとする。けれどその前に立ち止まって、「あ、そうだ。昼休みちょっと大切な話があるから部室まで来て」
「それっておっぱい揉める話?」
 芹沢は僕の言葉を完全にシカトして教科書を開く。

 

 昼休みになって部室に行ってみるとそこにはすでに芹沢がいた。
 プラネタリウムの修繕をすると言っていた望海はまだ来ていないらしい。
「なんだよ改まって」
「大切な話があるって言ったじゃん?」芹沢はきっと自分でも気づいていないであろうけれど、いつもより少し上ずったような声で喋っている。「実はさ、話っていうのはさ、」
 芹沢は俯いてしまって、枝垂れた前髪のせいで表情を確認できない。けれど何と言うか何かに悶えるように体をくねらせているし、妙に頬を赤く染めている気がするので、さすがに鈍感な僕でも芹沢の心情を察することができた。
「おい、便所に行きたいならさっさと行けよ」
「ち、ち、違うわ!」
 違った。全然察せてなかった。
「じゃあ何なんだって。昼飯も喰ってないんだし僕もう帰るぞ」
「待って待って」芹沢が、帰ろうとした僕の背中の裾をちょんと掴んだ。
 僕はそのままの姿勢で――つまり芹沢に背中を向けて制服の裾を掴まれた状態で、背後に芹沢の呼吸を聞きながら停止する。何なのだ、今日の芹沢はおかしい。おっぱいのひとつでも揉んでやればいつもの調子に戻ってくれるだろうか。それは妙案な気がしたので僕は振り向きざま、芹沢のおっぱいに手を伸ばそうとするが、その手よりも芹沢の言葉の方が数瞬早かった。
「――私、式彦のことが好き! 付き合ってください!」
 …………え?
 空気が静止したみたいに、すべての粒子が振動を放棄したみたいに、天文部の部室は静寂だけが支配した。音も空気も温度も消え去ったみたいなその空間で、僕の思考は混乱しそうになって、そのせいで理性によって止めていたはずの芹沢のおっぱいに向かう手が何故か勝手に動き出してしまって指先が見事、念願のそのおっぱいに触れてしまう。
「……怒ったりしないのかよ」
「正直、式彦になら触られてもいいんだけどさ、これって告白の返事オッケーってことでいいの?」
「いやー、おっぱいタッチがオッケーの返事ってどういう解釈よそれ」
「ほらお互いの人差し指をくっつけるのが友愛の証だった宇宙人の話だってあるじゃん」
「僕たちはE・Tじゃないからな」
 それにしても。
 それにしてもである。どうして芹沢が僕なんぞに告白してきたのか。これまでは普通にただのクラスメイトでただの同じ天文部の部員――ただそれだけの関係だったはずの芹沢が、どうして。らちが明かない思考に溺れていると、廊下の方で金属が弾ける音がした。
 それはよく授業中に聞くアルミのペンケースが落ちて筆記用具が床に散らばるあの惨劇の音――、学生だけが一発で気づくことができる生活音。そして今回も違うことなく、それはペンケースの落下した音で、天文部の部室のドアを開けるとそこには廊下に散乱した数本のペンと、望海が――。
「先輩……?」僕は隣に芹沢がいるので望海のことをそう呼ぶ。
「……箱宮先輩もしかして、全部聞こえてました?」芹沢が恥ずかしさと戸惑いの混じったような喋り方で尋ねる。
「――、」
 けれど。
 けれど望海は何も言わない。どこか一点を見つめているだけで、僕と芹沢の存在にすら気づいていないみたいだ。望海の足元に転がっているペンケースとその中身を拾った方がいいのか考えていると、幽かな声が僕を呼んだ。
「――ねえ、兄さん」
「ちょっ、芹沢がいるから! その呼び方は、」
 それでも僕の声は届かないみたいで、望海は僕に向かって叫び出す。
「ねえ兄さん、その女の告白受けるの? 兄さんは私だけのものでしょう? ねえ断るよね、そんな告白断ってずっと私と一緒にいるんだよね。嫌だよ、兄さんがいなくなるのはもう嫌だよ!」
「ちょっ、ちょっと落ち着け望海。目が怖いから、なんかヤバい人みたいになってるから」
「嫌だ、触らないで! 私、私――、」望海は涙を流している。
「どうしたんだよ、マジで」
 触れてしまえば壊れてしまいそうな望海に対して、僕は何もできずにただ言葉を投げるだけ。望海はそんな僕を責めたてるような目つきで睨んでいる。
 そして。
「私、兄さんのこと好きなの」
 それは、多分僕と望海の――関係を壊してしまう言葉。
 僕と望海の関係、
 それは同時に兄と妹の関係。
「私、兄さんのことが好き。ううん、式彦くんのことが好き!」
「違う、妹は兄に告白したりしないから!」
 おそらく僕と望海以外の人間が聞いても何を言っているのか判らないであろうこの会話。どこまでも矛盾していてどこまでも支離滅裂で、まるで辻褄が合っていない。
 だから芹沢もこう言わずにはいられなかったのだろう。
「さっきからふたりとも何言ってるの? どうして箱宮先輩が年下の式彦のことを兄さんなんて呼んでるの? ふたりは苗字も違うし、ましてや兄妹なんかじゃないでしょう?」
 それは至極当然な疑問。
 誰もが不自然に思うところ。望海は僕のひとつ年上で、だからつまり年下の僕が望海の兄であること自体どう考えても間違っている。そして芹沢は重ねて僕に疑問を投げつける。
「そもそも式彦の妹さんは二年前に――、死んでるじゃない」
 壊れていく音がする。
 僕と箱宮望海がつくりあげたこの生ぬるい嘘だらけの虚構が暴かれていく。
 それはあまりに簡単に崩れてしまうもので、きっと僕と望海もいつまでもこの嘘に嘘を重ねていくみたいな歩き方には限界が来るのだと判っていた。
 そう、確かに僕の妹は二年前に死んでいる。
 そして望海の兄もまた一年前に死んでいる。
 だから僕と望海はお互いに失ったものを補完し合うことで、大切なものを失った苦しみと悲しみから逃避することにした。年下の兄とか年上の妹とか、そんな問題はあまりにも些細に思えるほど、僕たちは何かに縋っていなければ現実に押しつぶされそうだった。
 そうして出来上がったのが、今の歪な関係。
 僕は兄を演じ、
 望海は妹を演じ、
 そうすれば元通り。
 半分になった林檎と半分になった梨をくっつけたら赤と緑のひどく不気味な果実ができるけれど、僕らはちょうどそんな感じ。どんなに恥ずかしくてみっともない恰好でも、あの孤独と悲痛に比べればむしろそれすらも愛することができた。
 けれどその関係が今崩れていく。
 塗り固めていたはずの嘘が、こうして白日の下にさらされて溶けていく。
 ああそうだ、僕に妹なんていない。
 妹は二年前に死んでしまった。
 あの時の喪失感と絶望感と空虚感が僕を殺しに来る。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 僕はもういっそのこと手首に歯を喰いこませて神経を引きずり出して血をドバドバ流して死んでしまいたい。こんな思いを抱えながら生きていくくらいなら死んでしまった方が全然いいに決まっている。どんなにつらくても生きていなければいけない自殺なんて間違ってるなんて言うやつは莫迦だ。自殺は人間だけに赦された、ただひとつの救済だ。猿だって自殺なんかしないぞと自殺を低俗なものだと決めつけるやつは死ね。それは猿が絶望を知らないからだ。そろそろ何を考えているのか自分でも判らなくなってきたところで脳の電子回路がブツンと音を発ててショートしたのが判った。
 僕はだたこの深い絶望の中で、妹の名前を何度も呼ぶ。

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