日めくりプロ野球 12月

【12月20日】2005年(平17) 清原、天国の仰木前監督に誓うオリックス入団

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 自分を育んでくれたパ・リーグ、そして故郷・大阪に清原和博内野手が帰ることを宣言した。

 「おまえの花道はオレが作ってやる」。人生のどん底を身を沈めている時、新たな進むべき道を指し示してくれた仰木彬前オリックス監督はその6日前に他界。亡き名将が生きているうちに二つ返事ができなかったことに清原は悔いていたが、ここ数年低迷するオリックスでの活躍を誓うことでその恩に報いる決意をした。

 東京・六本木で記者会見した清原は「仰木さんからはとても心に響く、温かい、希望に満ちた言葉をたくさんいただきました」と言うと、一瞬言葉に詰まった。そして目を潤ませながらも意を決したように続けた。「もう一度野球をやりたいと心に決め、地元・大阪で来季は精一杯プレーしたいと思います」。それは子供の頃から憧れ続けたジャイアンツとの決別宣言でもあった。

 38歳の誕生日から11日後の8月29日、巨人から戦力外通告を受けた清原は動揺した。現役生活は巨人で終えることを決意していただけに、終止符を打つという選択もあった。だが、完全燃焼していないよどんだ気持ちをどこにぶつければいいのか。心の整理がつかない中で声をかけてくれたのは仰木前監督だった。「お前がやりやすい場所はやっばり関西や。とにかく大阪に帰ってこいや。待ってるで」。9月末のことだった。

 仰木が清原を口説いたのは初めてではなかった。04年から2年越しのアタックだった。イチロー、田口壮、長谷川滋利ら95、96年のパ・リーグ連覇を支えた看板選手が次々とメジャーに挑戦し、新たな高みへと旅立つのと反比例するように、オリックスは輝きを失いBクラスが指定席に。復帰した仰木はチームの顔となる旗艦が欲しかった。04年オフ、既に体調は芳しくなかったにもかかわらず、清原に会うために神戸から東京へ幾度となく通った。

 涙が出るほど清原にとっては嬉しかった。ひざを痛め満足に出場できなずに球団から冷たい視線で見られていた時の仰木の熱意は心にしみた。それでも「巨人を見返したい」という一念があった清原は仰木の頼みを断り、巨人に残った。

 「それなら仕方がない。頑張れ。応援している」と愚痴もいわず、潔く諦めた仰木は傷ついた背番号5を励ますつもりで、イチローら限られた選手にしか贈ったことのない腕時計をプレゼントした。

 そして1年が過ぎた。直接朗報を伝えることはできなかったが、清原は大阪へ戻ってきた。大阪・PL学園高から西武入りして21年の歳月が流れていた。

 オリックスはドジャースを退団した、中村紀洋内野手も獲得。2人で通算821本塁打の重量打線が誕生したと、久しぶりに活気づいた。しかし、正直なところ、既に峠を越えた背番号5に大きな期待はできなかった。ひざの手術までして臨んだ06年のシーズンだったが、結果は67試合45安打で打率2割2分2厘、本塁打11本。チームは勝率4割を切り5位。最下位とはいえ、若手が着実にレベルアップした楽天の方が力は上と評価する声もネット裏からは聞こえた。

 ただ、随所でさすが清原という打撃を見せ、ファンを魅了したのも確かだった。5月27日の横浜1回戦(スカイマーク)では9回裏、ハマの守護神マーク・クルーン投手から3点差をひっくり返す“つり銭なし”の逆転サヨナラ満塁本塁打を放った。両リーグでの満塁サヨナラアーチは史上初。8月にもサヨナラ本塁打を打った清原は、通算12本目のサヨナラ弾、20本目のサヨナラ安打となり、記録保持者だった野村克也楽天監督のを抜き、歴代1位となった。「最高やで。これだから野球は辞められん」とクルーンから試合を決める一打をかっ飛ばした後、興奮気味に話した清原は、巨人時代にはあまり見られなかった屈託のない笑顔が印象的だった。(07年12月20日掲載分再録、一部改変)

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