歴代天皇が学ぶ「帝王学」とは何か? 古代から伝わる皇族教育の実像




文/小内誠一

帝王学とは何か?

秋篠宮殿下が「皇太子が受けるべき帝王教育を見つけていない」ことを理由に、「皇太弟」の尊号を辞退されたことは夙に知られる。また同時に、殿下は高齢での即位に消極的であることから、またもや特例法により秋篠宮殿下の即位が除外される可能性は高いだろう。

ところで「帝王学」「帝王教育」という言葉はよく聞くが、具体的には何であろうか?

人によっては「もはや帝王学など存在しない」だとか「帝王学(教育)ではなく象徴学(教育)だ」と主張する人もいる。確かに皇室典範には「天皇になるために習得する学問」が規定されているわけではない。しかし、今上陛下が皇太子だった頃、将来に向け教養を付けるため「梓会」という勉強会が定期的に開かれていた。形をかえてもやはり(広義の)帝王学は存在し、必要であると言わざるを得ない。

そこで今回は、古代から近世までの「帝王学」を振り返ってみたい。

古くからあった「帝王学」

「令和」という元号は、その出典が国書(万葉集)であることが注目を浴びた。それまですべての元号は漢籍(中国古典)を出典としていたからだ。平成は『史記』の五帝本紀の「内平かに外成る」及び『書経』の大禹謨の「地平かに天成る」から取られている。明治になるまでは政府や朝廷の公式文書は「漢文」で書かれていた(カトリック教会がラテン語を公用語としているのと似ている)。

前近代の日本では、中国から伝来した書籍、とりわけ儒教の経典や漢詩文集などを尊重し規範とする傾向が長らく続いた。帝王学の教科書も例外ではない。渡来人・王仁によって『論語』や『千字文』が将来された5世紀初めころの第15代・応神天皇朝から、そうであったと考えることが自然である。

平安初期の9世紀代になると、菅原是善(812-880、道真の父)の門下生・藤原佐世(ふじわらのすけよ、847-898)が編纂した『日本国見在書目録』(漢籍の分類目録)は、そのころ宮廷の文庫などにあった漢籍1579部の中に『帝範』『群書治要』『貞観政要』などを載せている。この三書が、帝王学の教科書として長く学ばれていくことになる。

帝範とは?

まず『帝範』とは、初唐の太宗(626-649)がみずから編集して、太子(のち高宗)に帝王となる者の心得を示した教科書で「君体・建親・求賢・審官・納諫・去讒・誠盈・崇倹・賞罰・務農・閲武・崇文」の12篇から成る。太宗は蓋世不抜の名君として名高く、とりわけこの『帝範』は「我が国に於ては、古く王朝時代より、君臣必読の規範書として、尊重され来」た(阿部隆一「帝範臣軌源流考附校勘記」)。内容を書き下して少し紹介しよう。

夫れ民なる者は国の先国なる者は君の本なり。人主の体は山岳の高峻にして動かざるが如く、日月の貞明にして、普く照すが如し。

『帝範』君体篇

難解かつ抽象的ではあるが、君主が持つべき心構えを説いた書であることは解っていただけると思う。この『帝範』は帝王学の必読書として日本でも古くから親しまれてきた。日本で注釈を加え進講された例として、第56代・清和天皇(850-881)の侍読を務めた大江音人が「勅を奉じて…『弘帝範』三巻を撰す」(『三代実録』)と伝えられる。

明治天皇や昭和天皇もこの『帝範』を学ばれている。特に大正天皇が即位われた時、本書が明治天皇愛読書として喧伝され、三島毅(中洲)の後を受けた漢学者の小牧昌業が大正天皇に進講して話題が高まり、複数の出版社から刊行され、そのおかげで現在でも古本が多く流通している。

また『昭和天皇実録』(東京書籍)を読むと、昭和天皇が14歳(1915年7月4日)の時、徳富猪一郎(蘇峰)より本書の献上を受けてたことが確認される。

群書治要とは?

続いて『群書治要』は太宗(626-649)が諫議大夫(天子に諫言する高官)の魏徴らに勅命して、先秦から初唐までの群書(道徳・歴史・思想の典籍数十部)から帝王の政治に必要な名文を抄出し50巻にまとめたものである。

これが宮中で格別に重視されたことは、第59代・宇多天皇が次の幼帝である醍醐天皇に書き与えた『寛平御遺誠』第20条に「天子は経・史・百家を窮めずと雖も、何ぞ恨む所あらんや、唯『群書治要』のみ早く訓習(暗唱できるほど学習)すべし」とあり、古くから『群書治要』が格別に重んじられてきたことが解る。

また昭和天皇(15歳、1917年1月29日)は、徳川頼倫侯爵より南葵文庫所蔵『群書治要』の献上を受けている(『昭和天皇実録』東京書籍より)。

貞観政要とは?

さらに『貞観政要』は、太宗が貞観年間(626-649)に、後世「貞観の治」と称されるほどの善政を行ったので、その太宗と廷臣との問答を崩後に歴史家の呉競が40篇にまとめたものである。これも宮中で必読書とされた。文章博士が進講したことの確認できる例は、平安時代中期から数多くある。

江戸時代に発布された「禁中並公家諸法度」第一条にも、先の『群書治要』とあわせて「先の貞観政要明文なり、寛平遺誡に、経史を窮めずといえども、群書治要を誦習すべし」と、帝王学の必需書として言及されている。

近代に入ってからも、儒学者の元田永孚(1818-1891)が明治天皇に、また漢学者の三島中洲(1831-1919)が大正天皇に進講している。昭和天皇(15歳、1915年12月20日)は、徳富猪一郎から本書の献上を受けている(『昭和天皇実録』東京書籍より)。

まとめ

このように古代から近代に至るまで、帝王学に漢籍は必要不可欠だった。そして、明治となり漢籍に基づく学問体系が廃止された後も、昭和天皇に至るまで『帝範』『群書治要』『貞観政要』の三書はとりわけ帝王学の必読書として愛用されてきたことが解る。

明治以降(特に戦後)になると、これら漢籍がご進講に用いられることは少なくなった。だが、平成と令和の両陛下もまた、これら伝統的な帝王学本に幼少期から親しまれていると聞く。なお、孔子『論語』のご進講は、伝統的にかならずある。

明治天皇の側近だった元田永孚は、経書が廃止された後にも「何の書を問はず講する所は、君道渦徳皇道の要旨、孔子の教学に基づかざるは無し」と述べていることは今もなお生き続けている。

秋篠宮殿下の「帝王学」はこれから始まるのかもしれないが、はたして「論語」を学ばれるだけの余裕はおありだろうか…。もう秋篠宮家の期待は悠仁さまに絞られているのかもしれない。

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